北京五輪と中国と日本

2008年8月8日午後8時。めでたい8を4つ並べて北京五輪が開幕した。その開会式をテレビで見たが、これまでの西側諸国のそれと、まったく違う眺めだった。
どこが違うか。第一は「歴史の重み」だ。BC1500年・殷王朝成立以来の歴史の重層だ。第二は「文化の深さ」だ。孔、孟、老をはじめ、その思想の豊かさだ。それを表現する文字、それを書く紙まで中国人が発明した。第三は「IT技術の吸収」だ。この10年のIT技術の勃興をみごとに消化して開会式で世界を魅了した。
20世紀、中国は苦難の歴史をあゆんだ。清朝末期、欧米列強に半植民地化され、その尻馬に乗った日本に、満州を奪われ、日中戦争で全土が戦火にみまわれた。1949年、人民共和国が成立して半世紀。文化大革命の混乱を除いて、内乱も外征もなく、平和であった中国は、改革・開放政策でいっきに国力をつけた。21世紀は中国の時代ということを、北京五輪は世界に印象づけた。
ローマ人は強大なローマ帝国で、地中海からブリタニアまで支配したが、文化の面では、長くギリシア・コンプレックスがあったという。ギリシアは「ソクラテスプラトンか」といわれる、西欧ヘレニズム文化の源流だ。
日本人も中国から、漢字を始め、仏教、儒教、書画など、もろもろの影響を受け、経済はともかく、中国・コンプレックスが意識の底にある。
中国はなにもかも巨大だ。万里の長城をつくり、地下に兵馬俑軍団をつくる国だ。天安門もでかい。「鳥の巣」も9万人が観戦できる。しかし、この巨大さが中国のアキレス腱になる。13億の人民に、大小50の民族問題をかかえ、深刻な貧富の格差をはらみつつ、その中華思想がごう慢にかわる時が危うい。
エスはつねに小さな子ども、2枚の銅貨、小さな群れに注目した。これが大事だ。
「 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(マルコ9・41)