高村光太郎と日の丸の揮毫

1945年8月15日。わたしは日本の敗戦を軍隊の中で迎えた。巨大な組織が崩壊するのを内側から見た。8月20日すぎから米軍の押収を恐れて、さまざまな秘密資料が焼却された。その火のなかへ、先輩・友人が揮毫した日の丸を投げた戦友がいた。「どうして焼くの」「東条大将の署名があるんだ」。残しておけば、いまごろ値打ちが出たかも。
わたしがいまも持っている日の丸の旗は、軍人の名はひとつもない。そのなかに、彫刻家・高村光太郎の名前もある。そのことを思い出して書いてみる。
1944年秋、入隊が決まったとき、ある方の紹介で、高村光太郎が日の丸に署名してくださるという。光太郎の妹さまという和服を召した方と落ち合い、本郷のたしか団子坂上あたりのお屋敷にうかがった。
妹さまがベルを押された。中からのぞき窓が開き、ドアがあいた。通されたアトリエの机の真ん中に、片手が大きく開いた彫刻があった。それまで手指の彫刻は見たことはなかったので驚いた。あとで光太郎の有名な作品と知った。
当時62歳の光太郎先生は、言葉少なに「どこの部隊に入るの」と聞かれた。「はい船舶隊です」「じゃ、いのちはないね」と言って、わたしが広げた日の丸に、「わたつみ(海)に敵をうつ 高村光太郎」と筆で揮毫された。そのうえ「徹」一字の色紙もくださった。そこには「光」一字の署名があった。
当時の日本の大人には、どんどん戦地へ送られて死んでゆく若者にたいして、なにかひけ目のようなものがあり、高村光太郎のような方が、わたしごとき者にも揮毫くださったのだ。
秘密書類を焼く火には、大きな海図もどんどん投げこまれ、焼く必要のないものまであわてて焼いていた。わたしには、愚かな軍国主義が焼かれたあの火柱と、主義主張がちがっても、世界がひとつになれる北京五輪の聖火の火柱が重なる。二度といくさはするまいぞ。日の丸に署名するのは、オリンピックの激励だけでいい。
「その時代、この地は平穏で戦争がなかった」(歴代下14・5)