モーセのことばはモーセよりりっぱ

むかしイスラエル民族が、エジプトの奴隷から解放され、指導者モーセのもと意気揚々と出発したのもつかの間、追い迫るエジプト戦車軍団と、前にひろがる芦の海に挟まれて悲鳴をあげた。
そのときモーセは「恐れるな、落ち着け、神が戦われる、静かにしろ」とさとしている(出エジプト14・13、14)。ところが15節で、主はモーセに「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか」と言われる。叫んだのは民衆だ。それだのにモーセが叱られている。
じつはモーセも、心の中で叫んでいたのだ。あんなにファラオと丁々発止のやり取りを重ねて解放の約定を取り、一方、奴隷根性にどっぷりつかり、現状変更を好まぬイスラエルの民衆をせき立て、やっと大脱走を果たしたと思うとこの始末。彼も、心の中で叫ばずにいられなかったのだ。
つまり、リーダーのことば、伝道者のことば、牧師のことばは、その人自身よりりっぱだということだ。「恐れるな落ち着け、神が戦われる静かにしろ」とさとしつつ、彼自身にも動揺があったのだ。
わたしの信仰の師・酒枝義旗先生は、スイスの神学者エミール・ブルンナーが、日本の敗戦後、国際基督教大学教授になられたさい親交を結ばれた。そして「ブルンナー先生が、日本にいられたあいだでいちばんすごいことばは『わたしは信仰なしに3年牧師をした』という一言だった」と洩らされた。
信仰なしに牧師をする。そんなことがありうるのか。牧師であれば、説教もし、聖餐もし、洗礼もしたにちがいない。ブルンナー先生の「信仰なしに」がどんな意味かわからない。しかし、あふれる喜びより低い水準であるのはたしかだ。
そのとき、牧師の語る説教は、牧師自身よりりっぱだ。モーセの語ったことばもモーセ自身よりりっぱだった。主はそれをご存知のうえで、モーセを大きく用いられ、ブルンナーを用いられた。あがめられるのは主のみだ。
「あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない」(出エジプト14・13)