隠岐の島にて、後鳥羽院のこと

shirasagikara2008-09-08

隠岐の島へ渡った。変化に富む美しい島々だった。8月26日(火)〜27日(水)、島根県江津市キリスト教愛真高校での教師研修会に参加し、31日(日)の全校礼拝までの3日間を隠岐へ旅した。隠岐にもキリスト教会があり、島から愛真高校に入学してくるという。
隠岐の島は、国立国会図書館時代の同僚の高橋徳太郎君から、一度行くといいと勧められていた。彼の父上・円三郎氏が島根県選出の代議士で、のち総理になった竹下登氏は父上の秘書だった。徳太郎君は隠岐の良さを知っていたのだ。
隠岐の島は、後鳥羽上皇後醍醐天皇の流刑の歴史に彩られる。後鳥羽院は1221年の承久の乱で、後醍醐天皇は1332年に北条幕府との戦いに敗れ、ともに隠岐に流された。後醍醐は1年で脱出したが、後鳥羽は41歳から60歳までこの島で過ごした。
この後鳥羽上皇はすごい人物だ。有職故実(ゆうそくこじつ)に通じた百科全書家。「新古今集」も撰した当代を代表する歌人百人一首の「人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は」は彼の作。しかも武芸百般を修め、流鏑馬(やぶさめ)、狩猟、相撲、水泳を好み、管弦、囲碁にも長じた。あの難渋する熊野参りも31回に及ぶ。だから後鳥羽院が、喜界が島へ流された僧・俊寛のように「悲しい、帰りたい」と嘆いたとは思われない。
彼は舟で島々をめぐり、歌を詠み、馬を走らせ、海で泳ぎ、魚を食べ、島民とうちとけ、けっこう隠岐の生活を楽しんだのではないか。この置かれたところで日々を楽しむのが人生の達人だ。キリストにある信仰生活の秘訣も同じだ。
日本人の中に、高貴な身分で、あふれる才幹をもちつつ、不遇を嘆かず、強靭な精神で生きた後鳥羽院のような人物がいたこといを誇りに思いたい。

後鳥羽院隠岐幽囚の火葬塚 蝉八百年なきやまぬかな
はろばろと海越えくれば隠岐の島や 高き崖原に牛草食みており
荒波に洞窟ふかくえぐられて 黒き小岩に海鳥群れゐぬ

「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」(ヘブライ 13・5 )