長寿に耐える覚悟

shirasagikara2008-09-15

きょうは「敬老の日」だ。百歳以上の日本人は、2008年9月1日現在、36276人だという。1970年、昭和45年、百歳以上は全国で310人だった。わずか40年で、百歳以上が120倍になった勘定だ。
テレビなどは、元気な百歳のばあさん、じいさんを紹介しているが、この長寿はそんな、めでたずくしのことではない。これからは長寿に耐える覚悟が要ると思う。
じつは、わたしの母はいま106歳。その母も百歳までは元気だった。99歳までは、裏千家茶道を教えてもいた。
ひとそれぞれ個人差があるが、母は102歳までは生活もふつうだった。103歳から足が弱り、ソファで寝ることが多くなり妄想が出始めた。家のうち、そとに、人がいるとか、自分の家にいるのに、家に帰るとむずかったりした。104歳で転び、寝たきりになって、妄想も消え、毎日介護士さんの世話をうけている。さる8月11日、肺炎のおそれで救急車で入院したが、それも収まり、8月23日の106歳の誕生日は病院で迎え、近く退院の予定。
百歳の母と、106歳の母はまったくちがう。母は、自分の持っていた能力を、神さまからつぎつぎそぎ落とされていった。立つこと。歩くこと。手を動かすこと。箸を使うこと。会話すること。母もつらいし、家族もつらい。母は「長寿に耐えている」のだ。それに介護費や入院費の問題がある。家族も「長寿に耐える覚悟」の時代が来たのだ。
しかし、感謝なことに、親の反対を押し切って、ヤソ教の父と結婚し、信仰を貫いた母は、やせて骨太が目立つが、寝たっきりで長寿に耐えながら、そこにいるだけで、ありがたいし、凝縮されたそのキリストにある生涯は、からだは軽くなったが重い存在だ。
「その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています」(第2テモテ1・5) (写真は河北病院での介護)