吉祥草と原始キリスト教会

shirasagikara2008-11-03

吉祥草(キチジョウソウ)の花が咲いた。無数に咲いた。庭の東南にモチの木がある。その根方1メートル四方に、いつのまにか吉祥草がふえた。たぶん鳥が種を落としたにちがいない。地下に茎を延ばし、また地上に這わせ、びっしりランのような細長い葉を群生させる。
上から見ると、ゆたかな葉のかさなりにかくれて、まったく花に気づかない。葉をかきわけると、葉の底に紫の花をつけている。そこに、ここに、その隣に。びっくりするほどたくさんの、可憐な花々だ。花が咲いていると思わないから、ついさきごろまで、その葉の上をいつも踏んでいた。吉祥草は踏まれても、踏まれても、むっくり起きていたのだ。
ふつう花は、葉の上に咲き、「われここにあり」と自己主張をするのに、吉祥草は葉の根元に咲き、しかも、しっかり品格をもっている。それでいて生命力にあふれ、どんどん周りに仲間をふやしている。
原始キリスト教会は、吉祥草のようにふえたのではないか。上から見るとクリスチャンがいるとも思えない。しかし人々をかきわけると、ここに、そこに、その隣にと、いつのまにかクリスチャンがふえている。しかも踏まれても、踏まれても、むっくり起き上がる。
エスを信じ、この世に生きているあいだは、人様のために働く心がまえでいるから、人間としての品格がある。「伝道集会」をしたわけではないのに、その周りに仲間がどんどんふえてゆく。一人一人が喜びの花を、つぎつぎ咲かせただけだ。
原始教会は、会堂もなく、牧師もなく、聖書もなく、賛美歌もなかったのに、ローマ帝国の中にひろまった。吉祥草のように。
「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6・28、29 )