叙勲辞退と神の叙勲

ことしも秋の叙勲の季節だ。日本中、名士一家のさんざめく声が聞こえる。
「主義として叙勲辞退す菊日和」(勝原文夫・第3句集「ペン皿」2008年9月)。勝原君は、国立国会図書館調査局創設以来の、「勝ちゃん」とよぶわたしの親友。もうひとり石原義盛君と三人、石原・勝原・藤尾と、もつれるように仕事をした三羽ガラス。
石原君も、勝原君も、退職後は短大の学長になった。そして石原君は「勲3等旭日章」を受けた。叙勲を受けるのも、ひとつの見識。辞退するのは、さらに大きな見識。
ふつう、人々は勲章をほしがるのに、わたしのかつての上司、同僚で、勲3等以上の叙勲を辞退するものが多く、担当者が「辞退しないで」と頼むほど。なぜ辞退したか理由は知らない。ただ辞退した人たちは、学位を持つ者、学問でも実力のある方々だ。農政学徒の勝原君も、70年代から「農の美学」「村の美学」「環境の美学」を刊行し、時代に先駆けて農村風景論を唱え、第8回「田村賞」(国立公園協会)を受けた。
北朝鮮キム・ジョンイル将軍様の周りに立つ将官たちが、胸から腰にかけて数十の勲章をぶら下げている姿は、異様でぶざまだ。米国の陸海空の将官たちは、正装しても勲章などぶらさげない。略章をつけるだけだ。勲章を見れば、その国の品格がわかる。
国家が出す勲賞を「人爵」という。その人に備わった気品や徳性を「天爵」とよぶ。さらに神が賜る「神爵」がある。その勲章には「ΙΧΘΥΣ」(イクトウス/イエス・キリスト・神・子・救い)と彫られている。神の叙勲は一律平等。これならだれしも大喜びしていただける。
「入学式無神論学長『聖書』ひく」「『悲愛』とはアガペーの訳納めミサ」「踏絵あり踏むがよいとの主のみ声」(勝原文夫・ペン皿)。
「あなたは、神の国から遠くない」(マルコ12・34)