余白の美と、余白恐怖症

中国や日本の山水画には、余白の美がある。
深山幽谷のかたわらに茅屋がえがかれ、禿頭(とくとう)白髯(はくぜん)の老人が書を読み、遠来の友人と談笑する姿。空は高く渓川は深いが、すべてに墨を入れない。また花鳥図もそうだ。竹や蘭の葉が、鋭くひと筆で走ってゆったりと余白をのこす。
31文字の短歌、17字の俳句も、表現したいことを、削って、削って、余白をつくる芸術だ。華道だって、葉を除き、枝を切り、これぞという花と枝葉だけををのこす。これまた余白をつくって美しさをきわだたせる。
ところが、アラベスク(アラビア風)といわれるイスラム文様は、余白恐怖症で描かれるという。イスラムでは偶像崇拝を禁じ、礼拝に集まるモスクには人物や動物を描けない。そこでアラビア文字コーランをえがき、唐草文様で細密に壁も天井もうめつくす。わずかな余白も残さない目配りと気の張りよう。これが余白恐怖症だ。
西洋絵画も、アラベスクほどではないが、すみずみまで色が入る。またパリのノートルダム寺院や、バルセロナのガウディ設計になるサグラダ・ファミリア教会も、いちめんの彫刻で覆い尽くされている。この隅から隅まで手を抜かず、色を入れ彫刻を刻むその精神、努力には脱帽だが、ユダヤ教の一点一画もゆるがせにしない精神が、キリスト教に入り、イスラムにも受け継がれているのかも。
しかし、余白を楽しむ日本人の生き方もすてたものではない。
エスは伝道旅行から帰った弟子に、「さびしいところで休むがよい」という。これは余白を取れということ。働きづめはよくない、描きすぎもよくないということだ。仕事人間は「余白恐怖症」と同じだ。
キリスト信仰はこの「余白恐怖症」から解放してくれる。なぜなら、毎週1回、日曜日に<ゆるされて、ほっとする>礼拝があることは、余白を楽しみ、ゆったり生きる術(すべ)が身につくからだ。

「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(申命記 5・14)