お祈りが苦手

「わたし、お祈りが苦手なんです」と言う方がいる。正直な方だ。そういえば、わたしも苦手かもしれない。イエスのように、ひとり徹夜して祈ったという経験はない。
韓国で教会の徹夜祈祷会(チョルヤキトヘ)に出たことがある。11時から午前3時ころまでだが熱気にあふれていた。そのあと早朝祈祷会(セビョクキトヘ)が4時半からある教会も多い。韓国の教会はよく祈る。胸を張り堂々と、朗々たる声でよどみがない。
もちろん長く祈るのがよいのではない。イエスも「くどくどと祈るな」「言葉数が多いと(神に)聞き入れられると思うな」(マタイ6・7)と教えられる。
祈りは苦手でもいい。苦手なら目を開けて祈ったらいい。イエスさまをはじめ聖書に出てくるファリサイ人も徴税人も、みな目を天にむけて神を見つめて祈っていた。「イエスは天を仰いで言われた。父よ時が来ました」(ヨハネ17・1)。これはイエスの「大祭司の祈り」といわれるが、目をかっと開いていられる。徴税人は「目を天に上げようともせず、『神さま、罪人のわたしを憐れんでください』と言った」(ルカ18・13)。彼も本来、目を開けて祈るはずだったことを物語る。
祈りが苦手なら、祈りは神さまとの会話なのだから、目をあけ、座っていても、歩いていても、イエスさまと話せばいい。「きょうも、よいお天気ですね」に始まって、いろいろ見回しながら話せばいい。気張って祈るより、ずっとイエスさまが身近になる。神さまの指紋がわかる。
ある韓国の村で、そこの女性と街へ出かけたさい、近くの教会の前を通ると、さっと教会にかくれた。何をしているかとのぞくと、会堂のいちばんうしろの椅子に座って祈っている。すきあらば祈るという態度には教えられた。外出の挨拶をイエスさまにしているのだ。祈りは特別なことではなく、この日常のことにすればいい。
「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(ルカ6・12)とある。