酒を飲んで背教者に

このあいだ、初めて会った方から「あの『聖書とお酒』に救われました」と声をかけられました。わたしの「インターネト聖書ばなし」第八集に入れた「聖書とお酒」を読んだらしく、以前所属した教会では、お酒を飲むのは罪と教えられてきたそうです。
むかし、学生時代洗礼を受け、仕事でシベリアで働いた方がいました。あまり寒いのでロシア人とウオッカを飲んだそうです。そのとたん「ああこれで、おれは背教者になった」と思ったといいます。「酒を飲むのは罪」という教会で洗礼を受けたからです。
日本に帰国してから、その方は「自分は背教者」と決め込んで教会を離れました。なんということでしょう。背教とは、キリストに背くことです。キリストに背くことなく、酒を飲んだだけで背教者に追い込む教会はわざわいです。その方は最晩年に、酒を飲んでも罪でないことを教えられ信仰を回復します。わたしはその葬儀にあずかりました。
一六世紀の宗教改革のさなか、イギリスで盛んになった禁欲的ピューリタン清教徒)は、ひたすら神に喜ばれる生活を求めました。神に喜ばれる生活とはなにか。そうだ、自分を喜ばせないことだと考え、自分を喜ばせるさまざまな欲望を禁じたのです。
ただ禁欲といっても、栄養になる食事は十分にいただく。しかし大食、飽食は罪と考えました。衣服も、暑さ寒さのため必要なものは十分にいただく、しかし必要以上に何枚も持つのはいけないと質素にしました。そこからアクセサリーや観劇も自分を喜ばすものとしてやめました。そして酒もタバコも禁欲の対象になったのです。
それから四〇〇年。清教徒の流れをくむそれらの教会で、食事も衣服も生活も、すっかりぜいたくになって自分を喜ばせながら、酒とタバコだけが残っている光景は、ああ滑稽。
飲酒の害、タバコの害は声を高くして叫ぶべきでしょう。しかしキリスト信仰と関係なく叫ぶべきです。酒やタバコは、十字架・復活のキリスト教の中心とは何のかかわりもないからです。「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい」(第一テモテ五・二三)