捕虜虐殺を拒否した渡部良三さん

12月7日(日)の夜、NHKが「最後の戦犯」を放送した。敗戦まぎわに、米軍捕虜を上官の命令で惨殺した見習士官が、BC級戦犯に指定されて潜伏。家族ともども苦しむストーリだ。当時「上官の命令は天皇の命令」で、拒めば「抗命罪」。命令拒否は不可能だったことを思い知らされる。
ところが捕虜虐殺を拒んだ日本兵がいた。渡部良三さんだ。クリスチャンだった。時は昭和19(1944)年春。場所は中国河北省深県東巍家橋鎮。共産八路軍捕虜5人が、日本軍新兵48人に刺し殺された。しかし良三さんはがんとして刺突を拒否した。
「刺突の模範俺(おれ)が示す」と結びたる訓示に息をのみぬ兵らは
深ぶかと胸に刺されし剣の痛み八路(パロ)はうめかず身を屈(ま)げて耐ゆ
屍(しかばね)は素掘りの穴に蹴込まれぬ血のあと暗し祈る者なく
虐殺(ころ)されし八路(パロ)と共にこの穴に果つるともよし殺すものかや
新兵(へい)ひとり刺突拒めば戦友ら息をのみたり吐くものもあり
鳴りとよむ大いなる者の声聞こゆ「虐殺拒め生命を賭けよ」
「捕虜殺すは天皇の命令(めい)」の大音声眼(まなこ)するどき教官は立つ
信仰(しん)ゆえに殺人(ころし)拒むと分かりいてなおその冠を脱げとせまり来
酷(むご)き殺しこばみて五日露営の夜初のリンチに呻(うめ)くもならず
かかげ持つ古洗面器の小さき穴ゆしずくのリンチ頭(ず)に小止みなし
炊事苦力(クーリー)行き交いざまに殺さぬは大人(たいじん)なりとぞ声細め言う(渡部良三「小さな抵抗」1992年)
敗戦後、良三さんは虎ノ門会計検査院に勤め、私は永田町の国立国会図書館におり、基督教独立学園の鈴木校長が上京されると三人で会っていた。虐殺拒否もそのとき知った。
「人々はわたしにあなたを殺すことを勧めたのですが、わたしは殺しませんでした」(サムエル記上 24・10)<口語訳>