四つの洗礼

shirasagikara2008-12-29

2008年は四つの洗礼にあずかった。
春4月。突然「洗礼を受けたい」と電話があった。わたしはこのときを待っていた。もう二児の母になった彼女の実家で家庭集会をしたさい、彼女はわたしのそばで熱心に話を聞き、わたしも彼女を目当てに福音を話した。その家庭集会もやめてずいぶんたったその日、電話が鳴った。種は蒔いた。それがゆっくり発芽を始めたのだ。親、兄弟、伝道者もさせることができない「洗礼を受けたい」という決心が、彼女の口を突いて出たのだ。
夏8月。青年建築設計士に洗礼をした。彼は大学の建築学科に入るさい、親から「中野の白鷺へ行って聖書の話を聞け」といわれたのに一度もわたしを訪ねなかった。大学院にすすむさい重ねて「白鷺をたずねよ」と厳命されたのに来なかった。そして大学院終了の前日の3月30日にやってきた。
ところが、この日から毎月、彼はメールで日程を申し込み喜んで福音を聴いた。わたしは1対1で聖書のレッスンをすすめ、1年5か月目の今年8月、最後のレッスンで「洗礼」の話をした。そして「どうだ」と聞くと「お願いします」の返事。田舎の両親祖父母も大喜び。
秋11月。病床の女性に洗礼をした。彼女の両親の結婚式の司会もした古い仲。目を閉じ会話もままならぬが耳は聞こえるらしい。彼女の母親の立会いのもと滴礼をしたが、おだやかな表情だった。母は胸元に白い布をひろげ十字架を置いた。
冬12月。「洗礼を受けたい」とバイオリンを学ぶ女子大生。彼女に「あなたの父方の兄弟姉妹ぜんぶ、そのおじい様の兄弟姉妹もみんな、その上も、その上も、さらにその上の明治10年代の、1880年ころから、あなたで6代目のクリスチャンの家族」と説明すると驚いていた。付き添って来た母親が「この12月24日は、30年前にわたしが受洗した日」という。しかもわたしの父からの受洗だった。同じ日に母はわたしの父から、娘はわたしから受洗し喜んで帰って行った。
「それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」(ヨハネ福音書1・13、口語訳)