韓国とキリスト教とオンドル

1967(昭和42)年2月、初めて韓国へ渡った。当時、国立国会図書館調査局文教課長だったわたしを、大韓教育連合会が招請し、米国アジア財団が旅費を出してくれた。20日余りの教育調査。42歳のとき。今84歳。日韓基本条約が締結されてまだ14か月。ソウルの街を歩く日本人はほとんどいない。そこで見て驚いたことが二つある。
一つは、ソウルのまわりの山肌に、びっしり建ちならぶ低い民家と、その中にあちこちそびえ立つ教会の姿だ。異国風の大教会が、貧しい民家を見下しているようで腹立たしくさえなった。しかし考えれば、世界で韓国人ほど聖書が肌身でわかる民はいない。
旧約聖書イスラエルは、国は南北に分かれ、北からアッシリア、バビロン、東からペルシャ、西からギリシア、ローマ、南からエジプトと、まるでローラーをかけるように、国土はじゅうりんされ、苦難の歴史を歩んだ。
韓国もそうではないか。北から漢民族やモンゴル民族、南から日本民族が、わが物顔に国土に攻め入り、これまた国は南北に分断、苦渋の歩みを強いられた。だからこそ、貧しくとも教会を建てるのだ。神を仰ぐのだ。その思いは日本人にはわからない。そしていま、豊かになった韓国は、いっそうキリスト信仰に熱心だ。
もうひとつ驚いたのは、どんな貧しい家でも、オンドルという床暖房設備が完備していることだ。家庭だけではない。沐浴湯(モギョクタン)という風呂屋の床も、料理屋の床もみな暖かい。おまけに家庭では同時に炊事も出来る。燃料はむかしは木の枝や練炭だったが、今は石油にかわり、酸欠死もなくなった。
「信仰」と「オンドル」。このふたつの熱は今も変わらない韓国だ。しかし世界最貧国のひとつ北朝鮮の民衆は、この冬オンドルの燃料は大丈夫か。核開発に巨費を投じ、民は窮乏する独裁政権北朝鮮はあわれだ。
「いかに幸いなことか、主を神とする国。主が嗣業として選ばれた民は」(詩篇33・12)