苦しいとき、二度、教育改革を断行した日本

きのう牡丹の根周りを掘り、牛糞と完熟肥料を埋めた。これで5月に大輪の赤い花を咲かすだろう。冬枯れの、寒風吹きすさぶときに肥料を入れる。草木も、個人も、国家も、これが大事だ。
日本という国は、徳川幕府軍との戦争が終わった直後の1872(明治5)年と、第二次世界大戦敗北直後の1947(昭和22)年と、2回、国家危急の瀬戸ぎわに、金もないのに教育改革を断行した。そんな国は世界にない。
1872年の「学制公布」では、全国を8つ大学区に分け、1大学区に32の中学区、各中学区に210の小学区をおき、早くも全国民機会均等の義務教育をスタートさせた。1947年の六三制の発足も、敗戦で疲弊した経済のなか、民衆は住むに家なく、食べるにこと欠く時代、義務教育を9年に延長。全国に新制中学、高校、大学を造り、教育制度を上から下までシンプルにした。
教育は「国家百年の大計」といわれるが、これがあったからこそ、明治維新から50年で、日本は西欧列強と肩をならべ、あの1945年の大敗北から50年たつと、日本は経済力で世界第2の大国になった。
日本の敗戦後、ちまたに失業者があふれたが、その失業者は、知識を持つ失業者だった。ものを造る力、列車を運転できる力、会社を経営する力など、さまざまな能力をうちに秘めた失業者だった。同じ100万人の労働者がいても、読み書きも充分でない100万人と、中学以上の学力がある100万人では、生産性がまったくちがう。1950年の朝鮮戦争で、日本は米軍特需で産業が潤い、敗戦から脱却の糸口をつかんだが、そこに日本のつちかった教育力があったのはまちがいない。苦しいとき「百年の大計」を実行した先人は偉い。
牡丹の、赤く柔らかい葉の芽が、そこここに顔をのぞかせている。春は近い。
「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません」(ルカ13・8、9)