政権交代がわたしのすべて

3月10日、民主党小沢一郎代表が、西松建設からの献金疑惑で、公設第1秘書の逮捕を受け記者会見をした。そのとき「政治生命をかけ、政権交替をはかるのが、わたしのすべて」と語った(朝日新聞11日朝刊)。これを聞いて「こりゃだめだ」とわたしは思った。大事なのは、政権交代をしたあと、なにをするかだ。どんな日本を造るかだ。

いま入学試験たけなわだが、大学に入るのが目的ではない。大学に入ってなにをしたいかが大事だ。大学合格が目的の学生は、合格したあと目標をなくして「五月病」になるという。

むかし、息子を東大に入れることが生きがいの母親がいた。わたしは「東大病患者」と笑ったが、母親はなりふりかまわず東大を目指させた。息子は有名私大に合格したが、それも蹴って、浪人させてなんとか東大に合格した。しかし息子が東大に入り、目的を果たした母親は生きがいをなくした。そして自殺。クリスチャンだったその母親の葬儀を頼まれたわたしは、イエスも、みずから死を選んだと語った。この母親の間違いは、息子が志を果たし、ひとり立ちしたあと、自分自身の歩む道を画けなかったことだ。いや、親子関係があまりに緊密すぎた。息子が家を離れ掌中の玉を失ったのだ。生きがいが消え、生きる元気も失せた。そしてうつ。うつは自殺へといざなう。

政権交代を政治の目標に置くのはおかしい。大学合格が目標もおかしい。そのあとなにをするのか、したいかが問題だ。

キリスト信仰を求める人も、洗礼を受けるのが目的ではない。キリストを信じ洗礼を受けてから、どうキリストのために働くかが大事だ。

結婚も同じだ。結婚するのが目的ではない。結婚してふたりでどんな家庭を築くかが大事でないか。

わたしたちは、さしあたっての目標を持とう。さらに、そのむこうに、さらなる目標が、つぎつぎあるとき人生は楽しい。山を越え、また山を越す楽しさだ。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(「第2コリント」4・18)