甲子園、それぞれの聖地

いま甲子園で、春の選抜高校野球大会が開催中だ。甲子園。これはたんなる地名ではない。甲子園。この名を聞いただけで、野球好きの青少年は魂をゆさぶられる。そんな場所は甲子園をおいて日本中どこにもない。いや、世界でも珍しい場所。それが甲子園だ。
甲子園の土を踏む。甲子園の打席に立つ。甲子園のマウンドで投げる。甲子園でヒットを打つ。走って打球をつかむ。ベースに滑り込む。ましてホームランを放つ。勝っても、負けても、この甲子園の出来事は生涯の宝になる。
これは、たんに甲子園の選手に選ばれた生徒や監督の出来事ではない。応援席で声をからして声援を送る生徒たちや、山のような応援団。いや、その後ろにいる母校や地元の熱気。それが甲子園に集中する。これが1世紀近くかけてつちかった日本の伝統だ。そして甲子園は聖地になった。聖地だから勝負に負けたチームは、甲子園の土を袋につめて持ち帰る。ちょうど聖地エルサレムの小石を、巡礼者が持ち帰るように。
甲子園のグラウンドを、選ばれて行進した経験のある者は、大人になっても、その日の感動を思い出すに違いない。聖地とはそういうものだ。そして人それぞれに聖地がある。イスラム教徒にはメッカが聖地だ。ユダヤ教徒エルサレムが聖地だ。カトリック信者はバチカンが聖地だ。一生のうち、いちどはたずねたい、その地を踏みたいと願うのが聖地だ。
しかしありがたいことに、キリストは「このサマリアゲリジム山でもなく、あのユダヤエルサレム神殿でもなく」と、場所や建物の聖地でなく「霊とまことをもって礼拝するところ」には、どんな小さなキリスト信徒でも、心に聖地を持つと教えた。
甲子園球児が胸躍らしたように、わたしたちも、キリストと出会ったあの喜びの日の記憶をたえず反芻するのだ。すると心が聖地になる。
「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである」(黙示録21・22)