祈りはピンポン玉

だれかが号令をかけて「1分間、黙祷!」と集団祈祷をすることがある。8月の原爆記念日とか、敗戦記念日によく見る光景だ。いつも思うのは頭を垂れて黙祷する方々は、「何に」「何を」祈っているのか。
祈りは神との会話だ。会話には相手がいる。それが山の神や、樹の神や、石の神では会話にならない。天の神だ。それも宇宙を創造し人類の歴史も支配する唯一まことの神だ。この神は、たんに超越した、恐ろしい神ではなく、「父なる神」とよばれる人格をもつ神だ。神が「父」なら、「子なる神」がある。それがイエス・キリストだ。もうひとつ「聖霊なる神」があり、これを「三位一体」という。一つでみっつ。三つでひとつだ。
この神を「主」とよぶ。「主なる神」であり「主なるイエス」でもある。祈りはこの「主」との会話だ。したしく主と話し合うのが祈りだ。たとえば平凡な主婦・浜谷不二さんのこんな詩がある。
主よ みたまによって歩けません
主よ みたまによって祈れません
主よ 信仰ありません
では何があるのですか 導くとの約束だけです
祈りとは 祈ることではありません 主のあわれみなのです
祈るとは 何かを言うことではありません 主の前に黙ることなのです
祈りとは 何もなくなることです 主の内につつみこまれることです
弱い自分をさらけ出して、主に話しかけ、主の声を聞くのが祈りだ。そう、祈りとは時に沈黙して主の声を聞くことだ。祈りの会話はひとりごとではない。ピンポン玉のように、相手の主の声に耳を傾けてこそ、対話の祈りになる。
「主は『サムエルよ、サムエルよ』と呼ばれたので、サムエルは言った、『しもべは聞きます。お話しください』」(サムエル上3・10)