愛という言葉の葬式

shirasagikara2009-05-04

三浦綾子さんの小説に「帰りこぬ風」という作品があります。札幌の病院で働く、ひとりの看護師さんの、1年あまりの日記の形をとったお話で、病院の人間模様がつづられます。その中で主人公の女性が、ある休日に円山動物園に遊びにゆき、おサルの親子のようすを見て気がまぎれたあと、いきなり「愛という言葉の葬式をしたい者、集まれ!」という文章が出てきます。
びっくりしました。おサルと葬式は関係ありません。そのあとの小説の展開の布石かと思いつつ読みましたが、やはり葬式は最後まで関係ありません。ではなぜ三浦綾子さんは「愛という言葉の葬式をしたい者、集まれ!」と書かれたのでしょう。おそらく三浦さんは、この言葉を心の中で温めていられたのではないでしょうか。どこかで使いたい「お気に入りの言葉」だったのではないでしょうか。たしかに「葬式」にまつわる言葉は、「悲しい」「つらい」「嘆き」といった「暗くしめっぽい」マイナス記号「−」のついた単語が連想されます。しかし「愛という言葉の葬式」となると、きょうのさつき晴れの空のように、上に突き抜けている「明るさ」「喜び」「ひろがり」「うれしさ」という、プラス記号「+」が連想されます。
そうです。きょうの「藤尾貞子・別れの会」は、たんに106歳という長寿でめでたいというのでなく、「愛という言葉の葬式」だからうれしいのです。ではどんな「愛の言葉の葬式」でしょう。まず、父なる神の愛、キリストの愛が、貞子にそそがれています。貞子の主なる神、キリストへの愛がささげられた生涯でした。また貞子の家族への愛、家族の貞子への愛。そして今日ここへお集まりいただいた方々の貞子への愛が、この会場をつつんでくださっています。
その証拠をお見せしましょう。本日みなさまにお配りする「百歳からの藤尾貞子」の中に、貞子への主の愛。貞子の主への愛。貞子の家族への愛。家族の貞子への愛が、つぶさにしるされています。きょうの「藤尾貞子・別れの会」が、この「愛という言葉の葬式」であったことを主に感謝します。
(2009年4月29日、東京・アルカディア市谷・私学会館での「藤尾貞子・別れの会」の藤尾正人遺族挨拶。写真は貞子の遺影の前で演奏する井崎郁子さん)
「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(第1コリント13・2)