百歳も、きのうのごとし

むかし日本陸軍にいて、完全武装で背嚢や小銃など30キロほどを担いで強行軍をした。とちゅう立ったままの小休止があった。そのときわたしが「きのうまた、かくてありけり」と、島崎藤村の「千曲川旅情のうた」の2番の切り出しを口ずさむと、すぐとなりの戦友が「きょうもまた、かくてありなん」とつづけた。ふたりは顔を見合わせてて笑い、「このいのち、なにをあくせく、あすをのみ、思いわずろう」と声を合わせた。
その詩の最後は「いにし世を静かに思え、ももとせ(百歳)も、きのうのごとし」で結ばれる。若かったころ「ももとせも」と口ずさみつつ、100年は長いと感じた。当時、戦争でもうすぐ死ぬと覚悟していたから、100年はとてつもない長さだった。しかしこの正月、106歳の母を天に送って、100年も身近に考えられるようになった。「ああ100年前か、母が小学校入学のころだ」というふうに。
たしかに100年は、長いようだが、ものごとの区切りとしてつかみやすい。むかし百歳は、人間の寿命の上限と見られた。だから「上寿」とも呼んだ。しかしいまの日本は、どんどんこの限界を突破して、わが母のように106歳を越える方々が急増している。まさに「ももとせも、きのうのごとし」となった。100年を頭の中のことでなく、身近な区切りとしとらえられるのはいいことだ。歴史を100年単位でつかんでゆく。「20世紀初頭、イギリスが世界に覇をとなえたが、20世紀後半はアメリカとソ連が世界の雄となった。そして21世紀は」というふうに。すると日本と世界が別の風景に見える。
グローバル化で世界のどこかで風邪がはやると世界中が感染し、長い100年も短くなった。しかし聖書は、天地創造から世界の終末までの見取り図を画いている。100年どころか億万年をひとつかみにしている。すごい本だ。
「 そこには、もはや若死にする者も、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる」(イザヤ65・20)