「イケメン祈り」「イケメン説教」

shirasagikara2009-05-25

十二使徒群像」を6年越しで彫っているが、なかなか仕上がらない。それは彫っている桜材が堅いので、わずか2センチの唇一本、まぶた一筋彫るのにも1000回は刀を入れるからだ。彫刻は忍耐力の教師だ。百回、二百回、三百回と、くちびる一本に力を込める。(写真は旗持ちフィリポ)
ずぶの素人のわたしが「十二使徒」を彫ろうと決心して、朝日カルチャー講座で木彫を学んださい、多摩美術大の先生から教えられたことはただ一つ。「きれいに彫るな」「人形じゃないんだ」ということ。
21世紀になるころから、日本で流行りだしたことばに「イケメン」がある。「イケてるメンズ」の略だそうだが、かっこいい男性アイドルを指すようだ。6年前の韓国ドラマ「冬のソナタ」主演の「ヨンさま」こと、ペ・ヨンジュンや、「キムタク」こと、木村拓哉などがその代表だ。いわゆる美青年。
しかし美青年は人形といっしょで飽きがくる。イケメンは見た目にいいだけだ。イケメンを抜け出てごつごつした「男らしさ」が備わると本物になる。つまり中身で勝負するのだ。「右手(めて)に血刀、弓手(ゆんで・左手)に手綱(たづな)馬上ゆたかな美少年」になってイケメンを越える。
「きれいに彫るな」「人形じゃないんだ」。「イケメンじゃだめだ」「中身で勝負」。これはすべてに通じる。
教会でもよく見かけるのが、原稿に書いた祈りや説教を読むだけの姿だ。紙に書いた祈りを読むのは間違いのない「きれいな祈り」だ。しかし祈る本人の力がこもらない。神に申し上げる祈りでなく、会衆に聞かせる祈りだ。説教だって同じ。原稿に書いた文章を、顔も上げずに原稿を読んでいる。間違いのない説教、きれいな説教、「イケメン説教」かもしれない。しかし力は感じられない。こんな説教をして恥ずかしくないか。
説教や聖書講義は、わずか40〜50分のことだから、暗記するのはわけもないこと。ぜんぶ自分のこころに消化して、胸を張り、顔を上げて、会衆を見つめ、その上の主を仰ぎ、ごつごつしても、不完全なへたな話でも、まごころこめて語ればよい。祈りも同じ。
「イケメン祈り」「イケメン説教」がなくなれば、日本の教会も変わるだろう。
「賛歌。ダビデの詩。主よ、わたしの祈りをお聞きください」(詩篇143・1)