日本開港150年、日本宣教150年

この2009年6月は、150年前の1859(安政6)年6月に、日本が200年の鎖国政策を転換し、横浜、長崎、函館を開港した月だ。それは同時にプロテスタントの宣教150周年でもある。
そもそも日本のキリスト教の歴史には三つの山があった。山というのは潮が満ち、キリスト教の勢いが高まった時期だ。山の前後は苦難の谷間だ。
第一の山は、16世紀なかば、サビエルが来日しカトリックの伝道を始め、信長の保護のもと西国大名や庶民にも浸透し、ローマ教皇天正少年使節や、支倉常長・慶長使節を派遣した時代だ。
第二の山は、19世紀なかば、上からの文明開化と下からの自由民権運動の高まりのなか、燎原の火のようにキリスト教は伸び、明治16年以降は信徒数が毎年倍増した時代。
第三の山は、20世紀なかば、太平洋戦争の敗北後、軍国主義国家主義の崩壊とともに、キリスト教が民主主義の光のなかによみがえった時期だ。一時は総理も、衆議院議長も、最高裁長官も、東大総長も、キリスト者が並び立った。
この三つの山は、ことごとく日本社会が内にこもるとき下降線をたどる。第一の谷は秀吉晩年の禁教と徳川幕府鎖国だ。第二の谷は1890年代以降の日本社会の国家主義への回帰だ。第三の谷は1950年の朝鮮戦争につづく「逆コース」の風が吹き始めた時期。
ではキリスト教は、いったいなにを日本にもたらしたのか。キリストの福音に生きた人材だとわたしは思う。しかも良心的で活動的な日本人をつかんだ。
キリスト教の評判が悪く、信仰しづらい谷間の時代にそれが見られた。17世紀、殺されても「踏み絵」をふまない切支丹、マニラに追放されても棄教しなかった切支丹大名・高山右近。19世紀、教育勅語に拝礼を拒んだ一高教師・内村鑑三。そして20世紀、キリスト教が日本社会に送り出した人材は数知れない。商人、職人、農民、技術者、科学者、実業家、教育者、文学者、芸術家、社会運動家、政治家、医者、各分野の学者。その多彩な活動は大きな影響を日本社会に及ぼした。なかでも女学校から大学まで、キリスト教主義の学園が果たした役割は歴史に特記される。
クリスチャン人口は1%でも、その日本での存在感はその何倍もあろう。10倍はあろうか。
「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」(使徒言行録5・41)