舌に留まれ、のどへ走るな、このうまきもの

「舌に留まれ、のどへ走るな、このうまきもの」。夢の中でブログを考えていて、ひらめいたフレーズだ。たしかに「舌の記憶」は永く留まる。わたしは人間がいやしいので、いま読んだ本の中身は忘れても、むかし食べた味は覚えている。
日本陸軍の船舶隊にいて、夜中に非常呼集され、敵前上陸用の小型舟艇に乗り、絶食絶水の演習を瀬戸内海でつづけたあげく、夜の8時にやっと佐伯島で地元婦人会に振舞われたうどんの味。
紀伊長島で早朝の漁師の船に同乗し、漁の帰り獲ったばかりのイカを切り、海水で洗って食べた柔らかく甘い塩味。そのあと大釜にイワシをぶちこんだ大根味噌汁のうまさ。
美濃の郡上八幡で、食べても食べても下から現れたウナギの二段重ね。熊野の瀞八丁の船着場の鮎の塩焼き。安芸の宮島の生カキ。夏の京都できれいに並べられた折箱のハモを、片っぱしから食べたぜいたくな淡白な味。三河湾の一籠のシャコの殻をむき、もういいというまで味わった記憶。北海道・常呂の採れ立てのホタテ。下関のフグの刺身。土佐のカツオのたたき。讃岐のうどん。越後・小千谷のヘギソバ。山形で佐藤錦の大木にはしごで登り、サクランボをむさぼりたべた思い出。もう切りがない。そのほとんどは伝道の途中の振る舞いだ。
恥ずかしながら、集会でたくさん聞いた聖書の話はこんなに覚えてはいない。ところが人間のことばでなく、神のことばの「聖書」はよく覚えている。それは黄金のように輝かしく、銀のようににぶく光ることばのかずかずだ。
旧約聖書ぼうとうの「創世記」1章1節の、荘重な「初めに神は天と地を創造された」に始まり、新約聖書のおわりの「黙示録」22章20節の「アーメン、主イエスよ、来たりませ」まで、どれだけたくさんの聖なる言葉を舌にのせ、味わい、噛み、のどへ送ったことか。それは胃でこなれ、血となり、肉となって、わたしを育て、養ってくれた。
この「記憶に残る」聖書の味を、またしても舌にのせ、ゆっくり味わい、のどへ送るのだ。
「あなたのみ言葉は、いかにわがあごに甘いことでしょう。蜜にまさってわが口に甘いのです」(詩篇119・113、口語訳)