「これぞクリスチャン」松田敏子さんの就眠

shirasagikara2009-06-29

この8月で満88歳になるはずの松田敏子さんが、6月25日(木)のあさ主に召された。わたしはその2週間ほど前、浜松の三方原聖隷病院のホスピス病棟に彼女を訪ねた。ベッドから身を起こした敏子さんは、顔色もよく、目に光があり、わたしの話や祈りを、ふとんに額をつけて聞かれた。台湾から来られた親友ふたりも泊りがけで世話をされ、そこは神々しいばかりの空気が満ちていた。(写真・左が台湾福気村での松田敏子さん。右は親友の小川禎子さん。2002年)
広島県生まれの彼女は宗教心が篤く、仏教の学校に学んで僧籍も得、伝道を志して中国へ渡ったが日本の敗戦で帰国し、35歳で和歌山女子刑務所の刑務官になった。そこで若い女子刑務官の影響をうけ教会に通い始める。
まもなくその教会の池でバプテスマを受けたが、あまりのうれしさに、その日もらったばかりの暮れのボーナスをそっくり献金して帰りの電車に乗ったが、夜の電車の窓ガラスに映る自分の顔を見て「これは、どなたさま」と驚いたという。喜びにあふれる自分「本人」が「別人」に見えたのだ。
驚くべきことは、その「よろこびの信仰」が、この6月まで50年あまりつづいたことだ。その彼女の喜びにふれて、受刑者で洗礼を受けるものがあとを絶たず、その受刑者の変わりようをみて、その家族もキリストを信じた数は、合わせて100人をくだらない。恐るべき影響力。いや主の働き。神学を説かない。聖書を講じない。彼女はただよろこびに生きただけだ。
1981年、刑務官を退職したあと、中国に関心があった彼女は単身台湾へ渡った。水のように柔らかく、低いほうへ流れる彼女の信仰は、台湾の友人の心に溶け入り、いつしか住まいも、食べ物も、生活用具も、働く教会も、日本語を教え、キリストを証しする場所も備えられ、なにも持たないようで、すべてを持っている心豊かな生涯を生きた。
自由な彼女は、平和集会にも、アシュラムにも、どの教会にも、無教会にも、カトリックにも、すすんでまじわり「これぞクリスチャン」という姿をわたしたちの目に焼きつけて召された。ああ。
「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」(詩篇116・15)。