はっとして、ほっとした話。ほっとしない話

わたしたちも「はっとして、ほっとする」ことがある。大事なものをなくして「はっと」し、出てきて「ほっと」する。恥ずかしながら、伝道者のはしくれなのに、聖書を置き忘れて帰ったことが5回もある。はっとしたが、5回とも出てきてほっとした。
山形の独立学園で講演のあと、職員室に聖書を置き忘れた。車を運転してつぎの集会地の仙台に向かう途中、かなり行ったときそれに気づいてはっとした。どこかの本屋で聖書を買えばよいと、2、3、立ち寄るが、小さい本屋に聖書は売っていない。仙台ならあるだろうと、その夜の宿舎の準備をしてくれた白洋舎仙台支店にまず立ち寄った。するといきなり「独立学園から電話があり、聖書を忘れられたでしょう」。オヨヨ。翌日集会する白洋舎には、聖書を忘れたあわれな伝道者を知られたくなかったのに、ばれてしまったが、ほっとした。
岡崎の家庭集会で、ある方からりっぱな卵をひと籠いただいた。ささげ持って名鉄特急を名古屋で降りたが、ふと気づくと肩が軽い。卵は大事に持っているのに聖書を入れたリュックは電車の網棚に。はっとして忘れ物相談所に駆け込み、終点の岐阜駅で発見され、ほっとした。
聖書の中にもそれがある。旧約聖書でいちばん有名なのは、アブラハムが、独り子イサクを神にささげる場面だ。100歳にもなって与えられたイサクを「焼き尽くすささげもの」にせよとの命令だ。なみたいていの「はっと」ではない。妻サラにも告げず、イサクに自分を焼くための薪を背負わせて彼はモリアの山に上った。そこでイサクを縛り薪の上にあおむけに転がし、アブラハムが馬乗りになって、刃をふりあげたとき、天から声が響いた。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、わかったからだ」(創世記22・12)。アブラハムの「はっとして、ほっとした」話。
しかし「はっとして、ほっとしない」こともある。その世界最大の話は、イエス・キリストの十字架の死だ。アブラハムの刃は振り上げただけだが、神の子には振りおろされたのだ。
「イエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び」(ヘブル12・2)