お祭りと日本のキリスト教

夏祭りの季節がきました。
日本の祭りは神社を中心とした地域社会の年中行事です。祭りでは神輿をかついで練り歩き、老いも若きもいっしょになって熱狂します。ところが、日本のキリスト教、とくにプロテスタントは、このにぎやかな祭りとは無縁です。なぜでしょう。
一つの理由は、日本で伝道を最初に始めた米国のプロテスタントが、禁欲的清教徒の流れをくんでいたからです。祭りにつきものの酒や踊りはいやしいものとしていました。
もう一つの理由は、日本の教会の構成が、教会の周りに住むの人々が集まる地域教会でなく、電車や自動車に乗って通う「通勤信者」だからです。
しかし信仰生活には、主の前で、老いも若きもいっしょに楽しむことが大事です。旧約のイスラエルも、いまのユダヤ教にも、カトリック教会にも、ギリシア正教や、ロシア正教にもそれがあります。
洋の東西を問わず、「祭り」には、神のまえの「まじめな面」と「遊びの面」があるのです。ふだん偉そうな顔をしたいい大人が、遊びのなかで自分をさらけだす。それを子どもたちが見て育つ。そのとき信仰の土着が始まるのです。
ほんらいキリストの福音は、主に救われて、うれしいもの。楽しいもの。叫びたくなるものです。米国の黒人教会のように歌って踊る必要はありませんが、日本のプロテスタントは、まじめいっぽうで、せいぜいクリスマスで劇を上演し、聖歌を歌うくらいというのは残念ではないでしょうか。
この「遊びのない」「まじめな」日本の教会は、真剣に聖書を学び、りっぱだし、長所もありますが、いっぽう、つまらないし、しんどいし、子どもには魅力がないものとなります。
年に一度でもいい、たとえば聖書講習会の最後の夜に「大笑いする」「大声で叫ぶ」「あんな偉い先生がゲームで笑いころげる姿」を見て、みなが「あたまが痛くなるほど笑いころげる」という、喜びの共通体験が持てないものか。「まじめに集い・共に遊ぶ」祭りの要素が取り入れられたら、キリスト教も土着化するのではないでしょうか。「そのとき、おとめは喜び祝って踊り、若者も老人も共に踊る」(エレミヤ三一・一三)