その一端にふれると全体がわかる

むかし解剖学者・河西達夫先生のご自宅で、先生ご自身が医学教育用につくられた「人体解剖スライド」(南江堂刊)を見せていただいた。そのとき、人間の顔の皮一枚はぐと、男女の区別がつかなかった。先生にうかがって女性と教えられた。肌の皮一枚が、こんなに男女差に作用するのかとおどろいた。
ところが、いつもふしぎにおもうのは、道で行きあう人、追いこされる人を見て、一瞬に、男性か、女性かを見わけている。もちろん服装や髪型でもわかる。しかし男女の区別のつかない服装や髪型も多いこのごろでも、ほとんどぱっとわかる。なぜわかるのかわからぬが、その一端にふれると全体をとらえている。
キリスト信仰も「その一端にふれると全体がわかる」。わたしがキリストを信じて洗礼をうけたとき、キリスト教の教理が両手をひろげたほどあったとして、その一端にふれたにすぎない。イエスをキリストと信じただけだ。しかしその一端にふれただけで、じつは全体を理解していたのだ。
こまかいことはわからない。しかしイエスをキリストと信じたことは、キリストに包まれたことなのだ。キリストという全体につつまれてしまったのだ。そのあと、少しずつキリストのふところの中で教えられればいいのだ。
一八八三(明治一六)年生まれのわたしの祖母・藤尾きぬは、小学校、それも当時の義務教育の四年しか出ていないが、聖書はぜんぶ真理とみとめ「自分ほどしあわせものはない」と主を喜んでいた。やはり「一端にふれて全体がわかり」キリストに安らいでいた。
エスもいう。「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」(ルカ二〇・三四)。顔の皮一枚めくれば、男女の区別もさだかでないように、「かの世」では、男はおとこ、女もおんなでありつつ、そんなことはどうでもよくなる。もうすべてのすべてであるキリストにつつまれているからだ。「そこではもはや、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ三・二八)