ボーン・クリスチャン

「ボーン・クリスチャン」(born christian)ということばがある。「生まれながらのクリスチャン」、「生まれつきのキリスト者」の意味で、親代々のクリスチャンの家庭で育った人のことだ。
親ゆずりではなく、自身キリストを求め、異教国・日本の、家族もキリストを知らない真ん中で、クリスチャンになった人は、信仰の芯(しん)が固い。しかし親代々の「ボーン・クリスチャン」は、キリスト信仰を空気のように吸って育ったから、その信仰に激しさは消え、柔らかく、おだやかだ。キリスト信仰が特別なものでなく、ごく当たり前の、肩ひじ張らない、意気込まない、平凡な、日常のこととなっている。それがいい面もあるし、頼りない面にもなる。
キリスト信仰は、仏教のように「家の宗教」ではなく、親子であろうと、親は親、子どもは子どもで、キリストを信じ、また信じない。だから親代々キリスト信仰がつづく家庭は祝福された家系だ。わたしのまわりに、この「ボーン・クリスチャン」の家族を三つ、いや四つばかり存じあげている。いずれも初代のキリスト信仰は、1883年(明治16年)から1895年(明治28年)にさかのぼる、ゆうに100年を越す信仰の家系だ。もちろんその家系が全員クリスチャンではない。しかしその多くがいつしかキリストに連なる。
できればかくありたい。しかしそれは主のあわれみだ。ただ親から子へ、孫へ、ひ孫へ、やしゃごへ、信仰をつたえる心がけも必要だ。そのいちばんいい方法は家庭集会だ。家庭の中だと家族ぐるみで讃美歌を歌い聖書が読める。家庭集会はその主人が、よほど喜んでいないとつづかない。努力もいる。お金もかかる。それを子どもが見て育つ。キリスト信仰は、熱心な初代で、ポキ、ポキ折れては残念だ。ごくふつうに、キリストを信じて喜ぶ、平凡な「ボーン・クリスチャン」こそ、あるべき姿ではないか。
そのために、親がキリストのことに「一生懸命」なこと。主を「喜んでいること」だ。それと「自分の弱さを隠さない」こと。
「泥まみれ さはれ、まなこは空あほぐ かわず(蛙)に似たる わがすがたかな」(内田ひろし、基督者百人一首・12番)
出来そこないが、そのままゆるされていることを喜んでいればいい。あとは主におまかせだ。
「いかに幸いなことでしょう。あなたに選ばれ、近づけられ、あなたの庭に宿る人は」(詩篇65・5)