伝道者殺すにゃ刀はいらぬ

「伝道者殺すにゃ刀はいらぬ、集会ぜんぶ出ればいい」と、ある伝道者がいわれた。
むかし琉球のはての石垣島へ行ったとき、そこの教会で日曜礼拝の説教をたのまれた。午後、牧師のくるまで島の案内をしていただいた。島の北側に伝道所があった。くるまの中で牧師が「日曜日に説教をして、昼から伝道所へ行こうとすると、<先生、わたしも行く>と、ついてくる熱心な方がいるんですよ。朝の説教の話を北でもするつもりが、ついてこられたら同じ話もできなくて、参りますね」。
わたしにも覚えがある。東京都内のあちこちで、毎月、週日に6、7回集会で話していたころ、そのいくつかに出ていた女性が、ぜんぶ出たいという。わたしはお断りした。ぜんぶ出られると、わたしはとても苦しむのだ。
牧師は、日曜日ごとに、新しく教えられたことを会衆に語る。その話をまた別の集会でも話すことがある。しかし信徒は牧師、伝道者のおしりをつねれば、聖書の話は泉のように湧き出ると思うから、のんきに伝道者の話をもっと聴きたいと「追っかけ」をする。「伝道者殺すにゃ刀はいらぬ。集会ぜんぶ出ればいい」。
しかし、わたしの父は「同じ話をすることを恐れるな」とわたしに教えた。同じ話に見えて、祈りをもってのぞめば、別のものになるという考えだ。「巡回伝道者の木村清松牧師は、1枚のレコードのような同じ話をしたが、いつも力があった。それは準備の祈りの深さだ」。そして「同じ話を20回すれば、自分の<十八番<おはこ>>になる」「ただし、3年、同じ場所で同じ話はするな」。
ところが「同じ話をして」と頼まれることもある。京都の集会で話したとき、そこへ出られた方が、「わたしの家庭集会で、きょうと同じ話をしてください」といわれた。また韓国忠清南道のプルム学園でわたしが講演し、劉煕世さんが通訳されたとき、聞いていた元敬善さんが、「これと同じ話を、慶尚南道の居昌高校でもしてください」と言われ驚いた。
日本中、世界中の牧師、伝道者が、毎週、期待と不安の中で、祈り、学び、教えられ、力を得て、安心して礼拝で語る。それは奇跡の連続だ。この期待と安心が「主は生く」という確信になる。
パウロバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ」(使徒言行録13・42)