原爆と日本とわたし

1945年8月6日、ヒロシマに原爆が落とされた日、わたしは100キロほど離れた香川県の陸軍船舶隊にいた。船舶隊の司令部はヒロシマの宇品にあった。連絡将校が高速艇で状況を把握にかけつけた。わたしの戦友の理科の学生が「たいへんだ。原子爆弾だ」と騒いだ。まだ新聞には「新型爆弾」としかいわれてなかった。
1947年、わたしは友人・村田静登君をたずねてヒロシマへ行った。友人は戦地から復員すると呉服屋の実家は全滅。掘ったて小屋に泊めてもらった。当時日本を占領した米軍は、ヒロシマ市民に原爆被害を口外しないよう厳命した。しかし8月6日になると、ヒロシマ市民は店先に、血染めの服や、焼けただれた遺品を「無言でならべ」、米国へ抗議したという。
1952年、米軍の日本占領が終わった直後の8月6日、「アサヒグラフ」が「原爆写真」を初公開、日本中が驚いた。即日52万部が売り切れたという。ヒロシマ長崎市民だけが知っていて、日本中が「残酷な原爆」を知らなかったのだ。わたしはその「アサヒグラフ」を当時ドイツ留学中の大里富雄君に送った。ドイツ人も驚愕したという。米国は原爆被害をひたかくし世界中が知らなかったのだ。
ここから日本で「原爆許すまじ」の声がほうはいと起こり、峠三吉は「ちちをかえせ ははをかえせ」と詩で訴え、丸木夫妻は「原爆の図」で地獄絵を視覚に訴えた。1954年の水爆実験で第五福竜丸が被曝してから、東京・杉並区の主婦を中心に始まった「原水爆禁止」のうねりは全国に波及した。
日本は世界で最初の原爆被害国になったが、加害国ではない。原爆をつくる力はあっても造らない。世界に冠たる「平和憲法」をかぶっている。兵器を外国に売ってもうける「死の商人」がいない。米英仏露中は発展途上国の紛争地域に武器を売り込み大もうけをし、戦闘を激化させている。この「平和憲法」「核兵器不所持」「兵器禁輸」。これだけでも日本は平和について世界に誇れる品格の高い国だ。
きょうもわたしは、近所のスーパーへ「日本国憲法第九条・戦争の放棄」の条文を胸に刷り込んだ、オレンイ色のTシャツで出かけた。背中には九条が英文で印刷されている。
「ああ幸いだ、平和をつくる人たち、神の子にしていただくのはその人たちだから」(マタイ5・9、塚本虎二訳)