教会を大きくするのはやめましょう。

教会を大きくするのはやめましょう。キリストを大きく喜ぶ教会になりましょう。自分たちが大きくなるのでなく、キリストが大きくなる、キリストさまを大きくお見せする教会をめざしましょう。
教会の建物が大きいか、小さいか、会堂に集まる会衆の数が多いか、少ないかは問題ではありません。どんな礼拝をしているか、どんな洗礼かも問題ではありません。カトリックか、プロテスタントか、正教か、関係ありません。教会が大きかろうが、小さかろうが、キリストを喜ぶ教会は、力にあふれ、楽しく、美しい。
そこでキリストが喜ばれ、あがめられ、腰がぬけるほどの福音が語られ、キリストを礼拝、讃美し、キリストから力を得て、キリスト伝道に立ちあがる教会をめざしましょう。キリストを喜ぶことが源泉になって、すべての活動があふれ出す教会になりましょう。
「みなさん、キリストさまは、すばらしいお方です。<罪なき神の子であられたのに、罪そのものとなられて十字架で死なれた>のです。それは<罪あるものが、罪あるままに、罪なきものとされるため>でした」。
「その罪というのは、ものを盗んだり、人を殺したりする罪ではありません。<神なんかあるものか、神なんか知らん>と、神さまに背中をむけているのを、聖書では<罪>というのです。キリストさまは、神を信じない<不信心者>のために死なれたのです」。「だから修行して、努力して、キリストさまの救いを獲得するのではありません。ただ受けるだけなのです。いや気づくだけなのです。<知りませんでした。わたしは罪なんか犯していないと思っていたが、神に背中をむけていた罪人だ>と気づき、くるっとキリストさまに向きをかえればいいのです」。
キリスト信者になるために、「何もできなくていい」ということが、心底わかることが大事です。そこからキリストさまのために、「何でもしよう」という力がわくのです。ある方はキリストの伝道に、ある方は弱い立場の方の友となり、ある方は平和のため熱心に働くのです。すべてキリストの「罪のゆるしの十字架」から始まります。
教会を大きくするのはやめましょう。キリストを大きく喜ぶ教会になりましょう。
「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(ガラテヤ3・1)