平常どおり、いつものように

「朝6時50分現在、JR各線、新幹線、私鉄各線は平常どおり運転中」。ベッドのなかで聞くNHKのラジオ放送だ。この「平常どおり」というのがいい。水道の蛇口をひねれば、あたりまえのように水が出る。トイレの水が流れる。うれしいこと。
この東京都中野区鷺宮の家に移って58年になる。住み始めの1950年代は、このあたりでも水洗トイレはなく、近所の農家の方が汲み取りに来られた。1960年代になると、東京都からバキュームカーが来て長いホースで汲んでくれた。しかし汲み取りは臭気がひどい。下水道が整備され、都内に水洗が普及したのは、わずか30年前の1970年代ではないか。だからトイレの水が、なにごともなく流れるのが、毎朝ありがたいのだ。
週に4回、清掃車が来てくれる。わが家の南の塀脇にずらりと並んだ、燃えるゴミ、燃えないビン、カン、ペットボトル、ビニールや印刷物を、「オーライ、オーライ」と声をかけながら、3人がかりで集めてくれる。ありがたいこと。
バス停では、いつものようにバスがくる。バスで阿佐ヶ谷へ出ると、JRも地下鉄も、平常どおり高架を走る。駅前では、8月30日投票の衆議院選挙の宣伝カーが大声をあげている。「平常どおり」の日本に、いっときの「異常」が切り込んでいる。しかし9月になれば、自民党が退治されて、また平常の日本に戻るだろう。
福音書でも、イエスは「いつものように」行動される。
安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた」(ルカ4・16)。「群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた」(マルコ10・1)とか、「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った」(ルカ22・39)とある。
「いつものように」安息日を守り、群衆に教え、祈りに退かれる。この「平常」をきちんとこなしてこそ、「異常な事態」に対処できるのだ。あの十字架の大異常でさえ。
「夕方になると、イエスと弟子たちとは、いつものように都の外に出て行った」(マルコ11・19)