笑うイエスさま

人はうれしいとき笑います。だから「悲しみの人」でありつつ「喜びを与える人」であったイエスさまが、笑わなかったとは考えられません。わたしが読んだ聖書の記事で、イエスさまがにっこり笑われたと思う箇所が、少なくとも二つあります。
一つ目は、あの「金持ちの青年」が、永遠の生命を受け継ぐため、なにをすればよいかとたずねたさい、イエス十戒のなかの6つの実践を挙げました。すると青年は「先生、そういうことはみな、子どものときから守ってきました」と答えたときです。
「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」(マルコ10・21)とあります。この<慈しんで>の原意は「愛された」で、塚本訳は「かわいく思って」です。人は不機嫌な顔で愛しません。愛するとき、慈しむさいは、うれしさがにじみ出て、自然に笑いがこみあげるのです。ここでイエスさまの顔はほころび、にっこり笑われたと思います。
二つ目は、「ムナのたとえ話」(ルカ19・16)です。主人は10人のしもべに1ムナずつ渡し「これを元手に商売せよ」と言い残して旅立ち、帰国してその報告を聞いたときです。
まっさきに出てきたのは、1ムナで10ムナもうけた人です。彼は「ご主人さま、<あなたの1ムナが>、10ムナをもうけました」と報告します。自分の努力ではなく、あなたの「ムナ」が働いたと言っています。「1ムナ」が主語です。この驚き、このよろこびが、彼をまっさきに報告させたのです。
すると主人は「良いしもべだ、よくやった。お前はごく小さなことに忠実であったから、10の町を支配させよう」とほめます。この「よくやった」とほめるとき、不機嫌な顔でほめるでしょうか。もちろん、ここはたとえ話です。しかしこの話をされたイエスさまは、にっこり笑われたとわたしは思います。
エスさまは「悲しみの人」(The Man of Sorrows)とよばれますが、そのご生涯で、たびたび破顔一笑されたのではないでしょうか。「こども さんびか」にもありますね。「うまがないて めがさめて 笑いたもうエスさまよ」。
「世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」(ヨハネ17・13)