新人を育てる

1週間まえの8月30日の衆議院選挙で自民党が大敗した。民主党に国民が投票したのは、自民党を退治したかったからだ。「最後のお一人まで、わたしが責任をもちます」と、5000万件の年金不明問題で叫んだ安部総理の責任はどうなったか。その安部、福田と、政権を二度も1年で投げ出した無責任。しかも選挙の顔に麻生総理をかつぎ、「責任力」を唱えた厚顔無恥に老いも若きも怒ったのだ。
政権をとったものの、これからの民主党はよちよち歩きで、おぼつかないことだろう。自民党はその足をすくおうとするにちがいない。しかし少なくとも2年は、民主党の成長を見守ることが大事だ。
古い伝統のあるキリスト教会では「若い牧師を育てる」という気風がある。だれしも最初から上手に話せないし、書けない。神学生のころ教会に派遣されて礼拝説教をするさい、神学生は苦しみ、もがき、祈り、学び、そしてへたな話をする。へたな話をした後味の悪さは、した本人にしかわからない。「いいお話でした」という言葉も、うつろにひびく。いま大牧師になっている先生がたも、みなそうだ。初めからうまい人物は数少ない。みな苦労するのだ。それを支え、育てるのが信徒、長老というものだ。
選挙で政権をひっくり返した民主党を、しばらく揚げ足取りをせずに育てるのが国民の責務だ。そして政権党と野党では、その経験がまったく違う。政権をにぎった内側では、自分たちの考えですべてが決まってゆく。会社の社長や役員と株主の違いだ。政権党は予算を立案し、執行し、政策を実行できる。政権をにぎって初めて体力がつき育つのだ。若い社長がその仕事で鍛えられるように。
しかし「あの大工さん、ひとはいいけれど、大工の腕はだめね」といわれたらお仕舞い。政党もマニフェストはりっぱでも、3年たって実績がなければ、国民はまた離れるにちがいない。牧師も「あの先生、ひとはいいけれど、聖書の話はさっぱり」では失格だ。
牧師にしろ、会社員にしろ、そして政党にしろ、新人を育てるには忍耐と、愛情と、厳しさが大事だ。イエスは選んだ新人の十二弟子に、教義や神学はいっさい教えず、神にのみより頼んで生きる、弟子として心構えと、喜びだけを教えた。
エス使徒たちに言われた。『財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか』『いいえ、何もありませんでした』」(ルカ22・35)