本を読む、減らす、捨てる

とにかく本を読むのは楽しい。84歳になっても、こりゃすごい作家だと驚いたり、この学説は知らなかったと感心したり、そうだったのかと教えられたり、有名人の文章でもこのあたりはくどいな、などと思いながら読み散らしている。寝るまえ、パソコンの日記に何ページまで読んだと入力すると読書記録にもなる。
最近の本は、自転車で3分たらずの杉並区立阿佐谷図書館から、字が大きいのを借りてくる。十二使徒群像の彫刻や彩色の参考に「魚図鑑」や「ひつじ図鑑」を借りたり、返したり、また借りたり。きのう読んだ本の内容も、つぎつぎ忘れるようなおぼつかなさだが、老人の読書の楽しみは、おいしいものを食べて「うまかった」という記憶と同様、「面白かった」という本の味わいが残れば、それでいいのだ。
勤めはじめが国立国会図書館調査局で、図書館の中にいて、図書館の本を使い国会議員にサービスする仕事だったため、図書館員でありながら司書の仕事はせずに、書庫も自由に出入りできて本が読めた。同僚の勉強家が「今月は新刊を何冊読んだ。定価で計算すると何千円」とふざけているうちに旧制の学位をとった。「万巻の書」というが「数百万巻」のど真ん中にいたしあわせ。
しかしこのごろは、どんどん本を減らしている。韓国関係本はそれに関心のある方々に差し上げている。むかし「読みたい」と思って買った文学全集などは字が小さく、「読まない」うちに、目が衰えて「読めなくなった」ものが多い。それに近く、2階から1階への部屋替えを予定していて、運搬を考え本を捨てることにした。毎週火曜日の書類のゴミ回収の朝、捨てる本をしばって出すと、「世界文学全集」などは、ぱっとなくなると家内はいう。「捨てる神あれば、拾う神あり」だ。
内村鑑三全集」「藤井武全集」「矢内原忠雄全集」「塚本虎二著作集」「黒崎幸吉著作集」「三浦綾子全集」は、すでにそれぞれ喜んでいただけるところの書架に納まっている。
いまは古本屋も、ありふれた古書は見向きもしない。それに若者の活字離れが嘆かれて久しい。にもかかわらず、本を読むのは楽しい。なかでも、あれだけ読んだ聖書は、読むたびまた魂の琴線にふれる。そんな本はほかにない。「いや〜聖書はすごい本ですね」。
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5・39)