笑顔、真顔、不機嫌顔

作家の三浦綾子さんが、「不機嫌ほど大きな罪はない」と、随筆集「天の梯子」に書いている。たしかに、いつも不機嫌な家族や上司、同僚とすごすほど不愉快なことはない。しかも身内の家族や同僚には不機嫌顔だのに、外の人には笑顔の人もいて面食らう。
それで思い起こすのは、信仰の師・酒枝義旗(さかえだ・よしたか)先生のことだ。先生の家とわが家は、歩いて5分ほどの近さのため、わたしは無遠慮にも、予約なしにたびたび先生の玄関に立った。そのつど出てこられた先生が「不機嫌」だった記憶がない。すぐ書斎にあげて、それこそわたしが口をはさむすきもないほど、上機嫌にしゃべられた。いつもの笑顔で。
むかし東京の永田町に勤めていたころ、ひる休みに皇居の周りを週に2、3回走っていた。5000メートル走るあいだに、たくさんの人と出会うが、外国人と目が合うと、その多くはにっこり笑う。そのうち、わたしも外人には、にっこり笑い返すようにした。米国などは多人種国家なので、外で人と目が合うと「わたしは、あなたの敵ではない」と、にっこり笑う習慣があり、子どもにも「スマイル」と教育するという。笑顔はこのように訓練でもつくれるが、生まれながら笑顔のすてきな方々も多い。笑顔はいい。
しかし日本では「男子は白い歯を見せるな」「食事しながら話すな」といった伝統があり、かつては食べながら笑うことも少なかった。つまりまじめな「真顔」だ。1980年ころ、わが家に泊まったアメリカ育ちの2世の少年が、「日本人はみな、いつも同じ顔」と言って、手のひらを自分の顔の前で上下させた。まじめな「真顔」を鋭く見抜いたようだ。しかし「真顔」は「不機嫌顔」ではない。わたしなども、まじめ顔が多く、笑顔が少ないといつも思う。笑顔がいい。
8月30日のブログに「笑うイエス」を書いたが、イエスも笑われた。「笑顔」のイエス。「真顔」のイエス。「悲哀顔」のイエス。「怒り顔」のイエス。「泣き顔」のイエスは聖書にしるされる。しかし「不機嫌顔」のイエスは知らない。たしかに「不機嫌ほど大きな罪はない」。真顔も悪くはないが、いい笑顔でいたい。
「イエスは涙を流された」(ヨハネ11・35)