感謝、薄謝、お交わり

伝道者や牧師が、信者の家庭を訪問したり、泊めていただくさい、手土産など気にすることはない。迎えるがわは、福音を聴こうとして待っていられる。聖書の話、喜びの福音がいちばんの土産だ。ちょうど医者を迎える患者の家族は、医者のいやしを待っているのと同じだ。坊さんだって、土産なしに堂々と、お経をあげ、お布施をもらって帰ってゆく。しかし、それがずうずうしくなると「お座敷こじき」と陰口をたたかれる。
お布施といえば、伝道者や牧師も、聖書の話のあと「お礼」をいただくことが多い。包みの表書きには「感謝」がいちばん多いが、「謝礼」もあり、なかには「薄謝」というのもある。金額の多少は問題ないのだから「薄謝」はいかがなものか。
ところが「お交わり」という書き方もある。わたしは以前、基督同信会で18年ほど伝道者として働いたが、そこでは集会、個人をとわず「お交わり」と書いた包みをいただくのが常であった。
これは深いことばだ。なぜなら「感謝」や「お礼」は、伝道者本人にむけられた謝礼だ。しかし「お交わり」は、伝道者の「伝道に交わる」という志をしめしている。「わたしは口べたで伝道ができません。仕事がいそがしく伝道のお手伝いもできません。しかし伝道にあずかりたいのです。伝道に交わりたいのです。だからこのお金を、あなたの伝道に用いてください。あなたが、いちばんいいと思う主のご用に使ってください」。これが「お交わり」の意味だ。たんなる牧師、伝道者むけの謝礼ではない。気持ちがキリスト伝道にむかっている言葉だ。つまり方々を回っている伝道者が、いまいちばん必要な物、人、場所を知っているから、それに使ってほしいのだ。時には、びっくりするほど高額の「お交わり」をいただくことがある。この「お交わり」は、もちろん日々の生活にも用いさせていただいたが、いただくたびに「何に使おうか」と考えた。そして、あちこちの会堂や個人の、いま必要なところに注入できて喜ばれた。
「お交わり」。いい言葉だ。深い表現だ。人でなく、こころが主に向かっている。
「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こう(献金)しようと心に決めたとおりにしなさい」(第2コリント9.6)