大仕事をかたづける方法

それほどおおごとでもないのに「大変だ!」と騒ぎまわる人もおれば、大変なことを、まるで何事もなかったかのように片づける人もいる。どこが違うのか。この仕事、あの仕事、つぎの仕事、別の仕事、それを「山のような仕事の固まり」が押し寄せると見るか、それとも、押し寄せる仕事を、一つ、一つ、分解して、片っ端からこなせば「山は崩せる」と見るかの違いだ。じつは「大変だ!」と思う心が仕事を大変にしている。
大群衆が押し寄せるのを見て、イエスが弟子のフィリポに「この人たちに食べさせるためには、どこでパンを買えばよいか」とたずねた(ヨハネ福音書6章)。弟子教育の始まりだ。フィリポは、目の前に、つぎつぎ押し寄せる群衆を見て、「こりゃ大変だ!山のような難問」と思った。彼は「先生、近くに200デナリオン(200万円)ものパンを製造する工場はありません。200万円ものお金もありません」と、「不可能です」と答えた。
このとき、弟子の一人のアンデレは、すぐさま群衆に分け入り、からだを動かし、声を張り上げ「パンをお持ちの方はいませんか」「だれか干し魚をお持ちでは」と叫んだ。彼もわずかな食べ物では、大群衆には焼け石に水と思ったが、ともかく行動を起こした。この「小さなものを探し出す」、これが問題解決の手がかりになる。あの仕事を分解処理する手口だ。
エスは浮き足立つ弟子と群衆の腰を低く草にすえ、ご自分一人高く立ち、みなの心を、その手のパンと干し魚に集中させ、この「小さなもの」をつかんで天に突きあげられる。弟子や大群衆の、イエスを見上げる期待と信仰。上からの父なる神の愛。この信仰と愛がスパークしたそのとき、奇跡が起こった。
フィリポは生涯、このときの光景を忘れなかったにちがいない。恥ずかしかったはずだ。頭で考え、だめと答え、指一本動かさなかった自分。すぐ走りまわって「小さなもの」を探し出したアンデレ。その「小さなもの」をつかんで立たれたイエス。この三者三様のちがい。イエスの弟子教育は自分で考え、行動し、失敗し、目に焼きつけ、からだに痛みを刻まれる教育だ。
「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた」(ヨハネ福音書6・12)