美しいものにかこまれる

人は美しいもの、懐かしいものにかこまれると、心がやすらぐ。居間に好きな絵や、家族の記念写真を飾り、手を伸ばせば愛読の蔵書があり、棚には愛用の食器があればうれしい。釣り好きな方は魚拓をひろげ、お気に入りの掛け軸や壷があり、思い出の旅行の写真を掲げる。いや、そんなりっぱなものでなくても、ちょっとした置物や、人からいただいた思い出のボールペン一本でも、気持ちがいやされるのだ。これらが何ひとつなくても、毎日窓の外に見る一本の大樹、流れる川、見なれた山、聞きなれた海の波音、それがわたしたちの心を包み、慰める。
しかし、かこまれると、もっとうれしいのは、人間の愛の関係だ。宝物のような古い友人、気の合う仕事仲間、とくに親子兄弟が集まる家庭は、心安らかにすごせる場所。貧しくとも妻子とすごす時間はありがたい。テレビなどは争いがないと映像にならないから、家庭内の問題を大きく写すが、ほとんどの日本人の家庭は心安らぐ聖地だ。
エスはご自分のまわりに集まった、たくさんの弟子の中から「祈りに祈って」「これぞと思われる」十二人を選ばれた。心ゆるす十二人にかこまれ、十二人を教育しつつ、十二人に支えられて、心安らかに伝道に励まれたにちがいない。ファリサイ派をはじめとする、ユダヤ教原理主義との戦いで、敵陣の真ん中を、のっし、のっしと、押し進まれるさいも、十二人はイエスをかこんだ。
そのイエスをかこむ十二人の固い輪が、わずかエルサレム入城から1週間でくずれる。これまで十二人は田舎のガリラヤで、イエスの舌端火を吐くファリサイ派批判。貧しい人々へのやさしい慰めの福音。手を伸ばせば病人がいやされてゆくさまをまぢかに見て、驚き、弟子にされたことを誇りに思った。
しかし初めてエルサレムに入り、まるで気が狂ったかのようなイエスの神殿粛清のふるまい、ナルドス香油事件をむだとみたユダの裏切りの決意、ゲッセマネの熱祷と無抵抗の逮捕。失望した十二人はイエスをすてた。家庭でも、あっという間に固いきずながくずれる。「心すべきことにこそ」。
エリエリと中天高く叫びたまふイエスの十字架に人あずからず」(正人)
「妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木」(詩篇128・3)