拝むカトリック信者に学ぶ

むかし、東京・中野の教会堂に住んでいたころ、玄関のベルに出てみると、実直そうな中年男性が立っています。初対面のそのかたは、わたしを見るなり「拝ませていただけませんか」と言われます。聞くと東北の秋田県から出稼ぎで上京したカトリック信者とのことです。教会近くの会社の寮にいるが、休みをもらえたので、いつも前を通るこの教会へ「拝みに来た」という話でした。
「ここの教会は、カトリックのような祭壇はありません」というと、「それでは先生を拝ませてもらいます」「とんでもない」と、小部屋へ案内してキリストの油絵を見せると、その前でひとりお祈りしていました。「ああよかった。きょう、一一月三日しか休めなかったもんで」。
そのあと、お茶を飲んで話していると「何か拝むものはねえですか」と言います。わたしは外国みやげにもらったオリーブの十字架をもってきて、「これはどう、差し上げますよ」というと、「こりゃありがてぇ、首にさげさしてもらいます」と大喜び。
ところがまたしても「何か拝むものはねえですか」と、周りを見回すのです。そこで古い破れかけた壁掛けの「聖書聖画集」を「これも差し上げましょう」と差し出すと、「ありがてぇ、寮の机の前に掛けて毎日拝みます」と笑顔になりました。
わたしは、このどこまでも「拝みたい」という態度に教えられたのです。わたしたちプロテスタントに、どこまでも「神を神とし、キリストをキリストとして拝む」という、強烈な礼拝意識があるかと反省させられました。
教会で聖書の深い解き明かしを聞いて喜ぶ人はたくさんいます。しかし、それは自分にもらうことです。拝むのは、心をキリストに差し出しているのです。プロテスタントの礼拝に欠けているのは、この「主に心を差し出して『拝む』信仰」ではないでしょうか。
愛すべき東北の農民カトリック信者に、「拝む心」の大切さを教えられました。この農民は、翌年も、つぎの年も、出稼ぎのたび礼拝に来られました。「たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」(ダニエル三・一八、口語訳)