信仰によって義とされる

その方は、ヨコ15センチ、タテ45センチほどの細長い紙に、太い筆で「信仰によって義とされる」と大書し、応接間の低い机におき、「これがよう分からんのじゃ」「神学校を出た先生がたに聞いても、むつかしゅうてわからん」と、にこにこ笑いながらわたしに言われる。愛知県岡崎市で、長年、家庭集会をしている桐山雅吉さんの父上・義一さんだ。そのとき義一さんは97歳。そして義一さんは集会皆出席。
わたしは義一さんにこう申しあげた。「あなたがイエスさまを救い主と信じると、イエスさまがあなたを、丸ごと、全部、死ぬまで、死んでも、面倒を見てくださるということです」。すると義一さんは「分かりました」とうなずき、その夜、ぞくぞくと集まった方々の前で洗礼を受けられた。1999年6月14日(月)のことだ。
この「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」という「ローマ人への手紙」3章28節ほど、古来読む人々の魂を揺り動かし、キリストへと人生の方向転換させた一句は少ない。
じつはいま、わたしの大事な60年来の親友が、キリストを求め始めており、うれしくてならない。彼はこの2009年春、からだが不調になり、わたしを招いてキリスト教で葬式をしてくれと頼んだ。しかしその後回復し、わたしは7月から月1回、さいたま市の彼をたずねて聖書の話をしたり、愉快に談笑している。
10月にたずねたとき、その彼が「信仰によって義とされる」と白い紙に書き、「この意味は?」と聞いてきた。わたしはその紙に「無罪判決を受ける」「丸ごと赦される」と書いた。おたがい耳が遠くなり、筆談のほうが間違いがないからだ。数日後、「先日、『信仰により義とされる』の意味をお教えいただき、たいへん明るい気分になりました。このことを信じ、『南無アッパ』と祈りつつ、やっていこうと思います」と葉書が来た。「南無アッパ」は、カトリック神父のことばらしい。彼はまわりの友人、先生、親戚にもプロテスタントがいっぱいいたのに、とくに信仰を求めなかった。神さまは不思議なことをなさる。
彼はわたしと同じ国立国会図書館調査局にいたが、退職後、地方の女子短大の学長もつとめた。また俳人でもある。
「主義として叙勲辞退す菊日和」「入学式無神論学長『聖書』引く」
「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(ローマ人への手紙3・24)