十二使徒群像「決意」

shirasagikara2010-01-11

思えば長い道のりだった。いまから18年前の1992年1月6日、ちょうど67歳の誕生日に、わたしはニューヨークのメトロポリタン美術館をひとりたずね、そこで見た十二使徒群像に衝撃をうけた。ほかの部屋を回っても、またそこへ帰っては見つめた。それは高さ30センチばかりの漆黒の十二使徒が、前面のペトロを中心に全員並び立つ構成だ。作者名も忘れた。しかし死ぬまでにわたしもこれを彫りたいと願った。
帰国後、やっと探してもらった朝日カルチャーの木彫講座で、多摩美大の中島教授に1995年春から1年、手ほどきを受けた。中島先生の教えで心に残るのは「きれいに彫るな、人形じゃない」のひとこと。そして先生の彫刻を手本に女性の頭部像ができたのが1997年。1998年はイスラエル旅行でもらったオリーブのかたまりから「十戒を持つモーセと、杖を握るアロン」の小品を彫った。1999年には棚板の残り木で、ヨハネ福音書3章・美し門の「ペトロと乞食」「乞食とヨハネ」の1対を彫り彩色した。ついで2000年には庭の枯れた椿の幹に40センチの「女性立像」を彫り、バイオリン製作者・中村良樹さんから、イタリアの柿のシブをもらって塗った。2002年には3人目の孫娘が生まれたので、小さな「少女坐像」も彫って彩色。この2002年で、都内や地方巡回伝道のほとんどの集会を解散したり、退任した。
こうして、やっと2003年から、念願の十二使徒群像にとりかかれた。78歳になっていた。そして6年。2009年10月、84歳の秋、未完成のまま「彫り止め」にした。
なぜ「未完成のままの彫り止め」か。たとえば書道の場合、展覧会に出す前、たくさん紙を切り、大硯にひと晩かけて墨を磨(す)りため、何十、百枚も書いていって(作品が)「ああ、出来た」と思う瞬間がある。しかし群像の場合、「ああ、出来た」と思う瞬間が来ない。いくらでも手を入れたくなる。しかし円空仏などには未完成の荒々しさが残って、磨きあげられた仏像より面白い。未完成で手を放すことも大事でないか。そして十二使徒群像の題は「決意」。ペトロはもちろん、ユダもふくめて、十二人が、新しい前進を「決意」しているはずだ。(写真は十二使徒群像。桜材、高さ80、径35センチ)
使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた」(使徒5・41)