「気にしない能力」の人を「気にしない能力」

むかし「気にならぬ能力」という一文を書いた(「ほっとしなけりゃ福音じゃない」1995年 所収)。人にはさまざまな能力があり、部屋の散らかりが「気になる能力」もあれば、「気にならぬ能力」もあると。ふつう、きちんと整理する人は「きれい好き」とほめられ、整理できない人は「だらしない」と見られる。しかし「気になる」のも一つの能力。「気にならぬ」のも一つの能力だ。
わたしの国立国会図書館調査局の上司・西野照太郎さんは、机の上に書類をつみあげ、はては原稿を書くスペースもなく、足を組んだ膝の上で原稿を書いていた。その彼が「鎖を断つアフリカ」(岩波新書)を書いて日本のアフリカ問題の先駆者になった。同じく机を並べた村山治君も、机の三方は書類の山。それでいて「あの資料」というと、積みあげた書類の中から、さっと資料を抜き出す早さには驚いた。乱雑にみえて彼の頭では整理がついていたのだ。見ていると、つぎつぎ発想が湧き、原稿に熱中し、資料整理は二の次になるのだ。彼はのち東京理科大の教育学教授になった。
もちろんこの二人の話は、パソコンなどなかった時代だが、きちんと整理する能力の人だけが仕事ができるのでなく、乱雑な資料が気にならぬ能力の方も仕事ができる。
ガード下や、線路脇に住む人は、電車の轟音を「気にしない能力」がつく。大家族で育つと「喧騒を気にしないで勉強する能力」ができる。「気にならぬ能力」も大事なのだ。
新約聖書に出てくる、ユダヤ教ファリサイ派は「気になる能力」のかたまりだ。一点一画をおろそかにしない。自分が「気になる能力」を持つのはいい。しかし「気になる能力の人」は、他人の「気にならぬ能力」が「気になって」しかたがない。イエスに「なぜ安息日に病人をいやすのか」「安息日に麦の穂を揉んで食べてはだめじゃないか」と。
エスは、飢えた(エパイナアセン)弟子<空腹の翻訳は誤り>が「律法違反を気にもしないで」生麦を食べるのを、また「気にもしないで」見ていられる(マタイ一二章)。いま一番大事なのは「飢えた弟子を救う愛」だ。いま一番がわかれば、二の次、三の次がわかる道理。「気にしない能力」の弟子を「気にしない能力」で見ているイエスはすごい。
安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2・27)