人間様が、鴨の鴨にされる

shirasagikara2010-03-29

久しぶりに日光へ行った。東京のわが家の庭には、源平しだれ桃が八分咲きだというのに、いろは坂の上は銀世界。雪景色の華厳の滝も初めて見た。ふもとの東照宮でも粉雪が舞った。
たずねた奥日光の雪はいっそう深く、湯の湖のほとりに立つと、膝までもはまりそうな雪の上を、鴨が1、2羽歩いている。「あら、鴨だ」という人の声に、その鴨が人懐かしげに、ひょこひょここちらへやってくる。つれのひとりが、お菓子を雪の上に投げると、上手についばむ。大雪で湖面は凍結し、鴨は食べるものがなく空腹なのだ。
わたしは持っていた「KIT KAT」のチョコボールを、口で砕いて手で投げる。雪に散らばるその黒い破片を2羽の鴨は急いで食べあさる。驚いたことに、つぎつぎ4、5羽の鴨が仲間の声を聞きつけてか、しりをふって雪の上をやってくる。「そちらにもやって」の声に、わたしは、かみ砕いた菓子を新参の鴨にもまいた。ああ、なんのことはない。人間様が「鴨の<いい鴨>にされている」のだ。それに気づいて笑ったころ、投げる菓子もなくなっていた。
ことわざの「鴨がねぎを背負ってくる」とは、「お人よしが、こちらにとって利益になる材料を持ってやってくること」「うまい話が、二重、三重になってやってくること」だ。(「ことわざ大辞典」小学館
聖書にも「鴨ねぎ」の話がある。ナバルの妻アビガエルが、ダビデに救援物資を持ってはせ参じたのもそうだ(「サムエル記上」25章)。
おそれ多いことながら、イエスさまの十字架も同じだ。いまから120年ほど前の明治24年ころ、大阪の江藤清助(尚美堂創業者)が福音を聞き、「ぼろい話やな」(元手なしの大得の話)と驚き信じたという。いかにも大阪商人らしい表現だ。「うまい話が、二重、三重になってやってくる」と感じたのだ。
「ほんまでっか。だまされとんのとちがいまっしゃろな。わてのかわりに、エスさんちゅうお方が、十字架に、はりつけにされて死なはって、そのエスさんを信じて拝むだけで、天国に入れてもらえるんでっか」(藤尾「ほっとしなけりゃ福音じゃない」所収、「ぼろい話」)。おそれ多い「鴨ねぎ」の話。
「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(ローマ4・5)