ひきこもり教会と家庭集会

shirasagikara2010-04-12

春だ。いっせいに落葉樹の若葉がのびる。土からは、思わぬ先まで根を伸ばした草花が、勢いよくあたまをもたげる。そうだ、いのちはおしとどめられない。子どもが元気よく動きまわるのは、いのちにあふれているからだ。(写真はクリスマス・ローズ)
キリスト信仰もそうではないか。信仰が生きていればかならず動く。目に見えぬ主からいのちをいただき、こころが動き、口が動き、手が動き、足が動く。いや、いきいきした信仰は、祈りの<静>の姿のなかにすら<動>が見える。
しかし「動き」がにぶい教会や集会から老齢化し、じっと古い仲間だけが集まる「ひきこもり教会」「ひきこもり集会」がふえたように思う。どうすればいいか。原点に帰って「家の教会」「家庭集会」を盛んにするのだ。家庭だと家族もつどえる。親の一所懸命さを子どもが見ている。家族だけでなく知人をさそう。それには金をかける。聖書、賛美歌をそろえ、茶菓を用意し、案内の知らせを送る。伝道者を招くこともある。しかしあくまで一家の主人が中心だ。
家庭集会をするさい、主人が主を喜んでいることが肝要だ。その喜びは、あのこと、このことの「主の恵みを喜ぶ」だけでなく、その本源の「主を喜ぶ喜び」が基本だ。赤ん坊がにこにこしている顔は、見るものすべて「かわいい」とひきつけられる。人は主を喜ぶ、その喜びにさそわれてキリストに来る。そんなにうれしいのなら、わたしも行ってみようかと。
「なんのために生きるのか」「なぜ苦難に耐えられるのか」。すべて主さまを仰いであゆめば、主が教えてくださる。わたしたちが主におすがりするのではない。すがりつくまえに、主さまがわたしたちをしっかりつかんでくださっている。すると、このかたに包まれている大安心が「顔に出る」。それは「讃美」になり口に出る。足が動いて友人にすばらしい主さまを「話したくなる」。それが「伝道」の基本形だ。
「ひきこもり教会」にこもっていては、その信仰の老化が進行する。そこを出て、イエスさまの紹介を、あの方、この方に始めるのだ。そのとき、あたらしい芽が教会にめばえる。思わぬさきまで根がのびる。
「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(?コリント3・6)