「以心伝心」でなく

「以心伝心」(いしんでんしん)ということばがある。正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)にも出てくる禅宗用語。真理は口では伝えられず、心から心につたわる意味だ。さらに転じて、無言のうちに心が互いに通じあう意味になった。たしかに仲のよい家族や友人同士では「あ・うん」の呼吸で、言わずともわかることがある。
しかし、ことばに出して相手に伝えることも大事だ。むかし都内をくるまを運転して走っているとき「この近くにお世話になったかたが住んでいられる。挨拶したいな」と思った。しかし急な用事をかかえていて、「このつぎ」と断念した。ところがすぐあと、その方はなくなられた。いまだに心のこりだ。いくら心のなかで感謝していても、相手に伝えなければわからない。
たとえば、わたしたちは書物や、雑誌に載る人様の文章を読んで「いいこと書いていられる、教えられるな」と思っても、いちいちメールや電話をしたりはしない。もし感想を伝えると相手は喜ばれるにちがいない。それは拍手をすることだ。バイオリンの演奏会で、弾きおわったとき、なんの拍手もなければ、演奏者は不気味にかんじるはずだ。
日曜礼拝は、キリストさまに「あなたの十字架と復活はすごいことです」ともうしあげ、拍手、それも鳴りやまぬ大拍手をささげることだ。日本の古歌には「こころだに まことの道にかないなば 祈らずとてや神は知るらん」というのがあるが、イエスさまは「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」と言って「主の祈り」を教えられた(マタイ6・8)。ご存じなら祈らなくていいのではない。愛の関係にあるものは、本人のその口から聴きたいのだ。それが祈りだ。
夫婦でも「これはおいしい」「これはすごい」と会話があるのがいい。「言わなくてもわかる」関係は、いつしか無感動、無表情になる。ある人が、一日三回、奥さんに「おまえはかわいい」と声をかけると、その奥さんはきれいになると教えてくれた。言われるたびに奥さんがにっこり喜ぶからだという。わたしもやってみるか。
「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない」(マタイ6・7)