ほめ上手

前週のブログで、「一日三回、奥さんに『おまえはかわいい』と声をかけると、その奥さんはきれいになる」と書いた。ほめられると、にっこり笑う。笑顔になるから、やさしくみえる。美人の条件は「笑顔」と「背すじがしゃんとした姿勢」と「目的をもつ生き生きした生活」の三つだと聞いた。けっして生まれながらの顔、形だけではない。
そのブログを読まれた方から「わたしの義母(はは)はほめ上手」とのメールをいただいた。
「わが家をおとずれる方があると、母はまず『なんてほめようか』と考えるらしいです。女性の方だと、だいたい『あなた、美人ねー』と言います。相手の方は、ほとんど、にっこりします」。
人間だれしも、なにかよい点があるものだ。それをほめられると悪い気はしない。心がいやされる。その人の欠点を指摘するより、まず長所をほめることが大事だ。わたしの信仰の師・酒枝義旗(さかえだ・よしたか)先生は「ほめ上手」だった。あるとき先生の書斎で、ある方が「かれはドイツ語ができません」といった。すかさず先生は「いや、英語はたいしたもんです」とさえぎられた。さすが。
エスはどうか。ルカ7章で、ファリサイ派シモンに「50と500、どちらが大きい」と、やさしい問題をだし、「500」といわせて「そのとおり」と、ほめてから叱られる。
また「あなたの信仰はりっぱだ」とほめられたのは、「わたしは子犬」とへりくだった外国人カナンの女性だ(マタイ福音書15・28)。「あなたの信仰があなたを救った」とほめられたのは、12年間も病気でくるしんだ女性(マルコ5・24)。イエスさまの足を涙でぬらし長い髪でふき、足にキスして香油をぬった娼婦(ルカ7・50)。10人のハンセン病者のうち自分がいやされたことでなく、自分をいやしてくださったイエスを拝むために引き返したサマリア人(ルカ17・19)。エリコの城門で「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫んだ盲人(ルカ18・42)たちだ。
すべて、差別をうけながら、いちずにイエスご自身へ迫っている。このかた以外にわたしの救いはありませんと、ぴたっと心をむけている。その信仰に、イエスのおほめのことばがふりかかる。
「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」(ルカ17・18)