「聖書を語る牧師」と「福音を語る牧師」

「病気を診る医者」と「病人を診る医者」はちがいます。「教科書を教える教師」と「生徒を教える教師」もちがいます。「聖書を語る牧師」と「福音を語る牧師」もちがいます。
昨年一一月すえ歩くと息苦しくなり、近くのキリスト教病院で診察を受けました。「肺に水がたまり心臓の弁が逆流している。二週間の入院治療が必要」との診断。「とんでもない、一二月に浦和と新潟で講演を頼まれている。這ってでもゆく」「検査治療には二週間かかる」「一週間にしてください」。結局その主治医は、この患者は講演でたとえ死んでもそれを喜ぶと診断して入院を一週間にしてくださった。「病気を診る医者」でなく「病人を診る医者」でした。なかなかの名医。
三浦綾子の小説には学校がよく描かれます。そこでは「教科書を教える教師」と「生徒を教える教師」が出てきます。たとえば「泥流地帯」の師範出の益垣先生は前者です。分教場の代用教員の菊川先生は後者です。だんぜん菊川先生の人気が高い。それは一人ひとりの家庭の事情も熟知し人間の教師になっているからです。益垣先生は生徒の遅刻や居眠りをやみ雲に叱りますが、生徒が授業前に田畑の手伝いをするのに気づきません。
牧師や、伝道者も同じです。「聖書を語る牧師」はまじめです。しかし一週間聖書を熱心に読んで祈って原稿をつくって説教しても、自分の話したいことをやみ雲に話すならば、会衆の頭に訴えるだけです。
「福音を語る牧師」は主を喜んでいます、聖書を学ぶほか、よい牧会をしています。日曜日、信徒と顔を合わすだけではなく、病気の信徒を見舞い、欠席がちの信徒をたずね、信徒の信仰相談、家庭の問題も親身に耳を傾け、それらぜんぶをわきまえたうえで、日曜日に信徒に語りかけます。聞くがわも牧師を信頼しているので魂をゆさぶられるのです。
どちらかというと、大病院でなく小さな診療所に名医がいて、りっぱな学校でなく分教場にすごい先生がいて、壮麗な教会でなく草深い教会に「キリストに生きる伝道者」がうまれます。「あなたの信仰が(わたしの力を引き出して)あなたを救った」(マタイ九・二二)