几帳面な日本人

日本語に「几帳面」(きちょうめん)ということばがあります。ところが中国語にも、韓国語にもないのです。
これは一〇〇〇年前の源氏物語絵巻によく描かれる几帳が語源です。可動式ふすまのようなもので、几(き)は物をのせる台、帳は「とばり」で、垂れ下げて隔てにする布を指します。台に二本の柱を立て、柱の上に長い横木を渡し、その横木に美しい「とばり」を垂らします。「几帳面」とは、その両柱の角を円角面に削り、さらにタテ、ヨコに切れ込みを入れて仕上げます。ここから「物事をすみずみまで気をつけきちんとするさま」(広辞苑)の意味がうまれました。
たしかに、折り紙にしろ、列車・電車の定刻発着にせよ、日本人は几帳面です。茶道の袱紗さばきでも折り目正しく、点てた茶碗を客に出すさい、畳の縁からタタミ目の一三番目あたりに置くといったぐあい。
むかし日本陸軍で驚いたのは私物の軍衣袴の整理整頓。シャツやズボン下は布なので、たたんでも角は丸くなります。そのシャツの角の上下をヨコ一線に、指先が痛くなるほどクセをつけるのです。ゲートルの端は脚の両側中央。挙手敬礼は右手中指と人指指の間を軍帽のつばにつける。ひじは肩の高さ。明治以来七〇年、ほとんどの日本男児は、この几帳面さをたたきこまれたのです。
和箪笥でも、引き出しをあけ閉めすると、別の引き出しがふわっと出てきて、押しもどすと、また元のが少し顔を出す「几帳面」なつくりです。
几帳面といえば、聖書の神さまほど几帳面なかたはいません。一点一画をおろそかにされないのです。「タタミ目一三番目あたり」どころではなく、その几帳面さにユダヤ人も参っていました。しかし、イエス・キリストは「神の律法の一点一画」もおろそかにされずに、それを内がわからひっくり返されました。
「姦淫するな」という大原則は守りつつ、「みだらな思いで他人の妻を見る者は、心の中でその女を犯した」と、男子の胸に短刀を突きつけ、キリストの救いを指し示されたのです。つまり旧約の「角」と、新約の「円」を合わせられました。そういえば「几帳面」は、本来「円角面」のことでした。「昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5・21)