億の巨匠・非凡なる凡人

「億の巨匠」ということばを知ったのは、西平直喜著「偉い人とはどういう人か」(北大路書房)を読んだときだ。
この本は内外の伝記資料を読み解き、偉人といわれる人の多面性をあぶりだすが、同時に平凡な人々の中にある非凡さにも注目する。それが宮沢賢治の「億の巨匠」という思想だ。
「ああ、誰か来て私に言え/億の巨匠が並んで生まれ/しかも互いにあい犯さない/そんな世界が必ず来ると」(詩「春と修羅 第二集」所収「業の花びら」)。
つまり、100人おれば100人とも、「巨匠になれる素質がある」というのだ。それは「グスコーブドリの伝記」のブドリが、自分を犠牲にして、イーハトーブの森に住む人々を救う生き方に通じる。平凡な火山局技師心得のブドリも「億の巨匠」の一人だ。
たしかに、わたしたちのまわりに「億の巨匠」がいる。わたしが小さい家庭集会をするたびに、出席されるかたの娘さんが、まるで一流のケーキ店から買ってきたかの逸品のケーキをいつもつくられる。彼女は「ケーキの巨匠」だ。近所の豆腐屋のおやじは、自分の豆腐には絶対の自信を持って店に立つ。豆腐の講釈が始まるととまらない。彼も「豆腐の巨匠」だ。阿佐ヶ谷南の商店街に、小さな肉屋を営み、ドイツのハム・ソーセージつくりのコンペで、いつも金賞を獲る職人がいた。彼は「ソーセージの巨匠」だ。
むかし日曜日に、教会の玄関のスリッパをそろえるおばあさんがいた。どんどん人が入ってくると、すばやく補充のスリッパを出す。にこにこしてスリッパ係を務める彼女は「スリッパの巨匠」だ。やがて教会も靴のまま上がるようになり、彼女は残念がった。そして「億の巨匠」は、だれしも自分が巨匠だとは夢にも思わない。だから誇らない。「あい犯さない」のだ。国木田独歩の「非凡なる凡人」の桂正作のように自然体の巨匠なのだ。
エスも「億の巨匠」をみつける名人だ。平凡なガリラヤ湖の漁師たちを「漁の巨匠」と見られ、マタイも数ある税関職員のなかで「税務の巨匠」と注目された。すべて自分の今の仕事に熱中していたからだ。いや、イエスに見つめられると、平凡な人間が、つぎつぎ「億の巨匠」に生まれかわるのだ。平凡な信徒が、キリストのためなら命を投げ出す、非凡な殉教者になって教会はつづいてきた。それも「億の巨匠」たちだ。
「キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(第2コリント15・22)