ねじりこんにゃく2段ひねり

ふつう、こんにゃくの長さは15センチ。それを3等分に切る。その5センチ幅の切り口を下にして立て、また3つに薄切り。その長めのほうをタテに8つか、9つに切りわける。すると細長い短冊型が山盛りできる。そこへ切り込みを上下に「2つ」入れる。いわゆる「ねじりこんにゃく」の切り込みは「1つ」だが、ここが藤尾流のミソだ。その2つの切り口へ、上と下からこんにゃくをねじりこむ。これで「ねじりこんにゃく2段ひねり」の原型ができる。
あとは、それを油を引いたフライパンで、ニンニク、醤油、砂糖、塩、ダシの素、酒で炒める。赤唐辛子は小1本。種をきれいに抜いて、2つ3つに切って放り込む。醤油、酒の中で、けっこう長く煮る。2度ねじっただけ味がしみる面積がふえ、曲線がきらきら輝く。辛いのに弱い人は辛子を出す。
これがめっぽううまいのだ。「料亭の味よ」「デパ・地下に出せるわ」とおだてられ、またしてもつくらされる。わたしは味の濃い目が好き。家内は薄めがいいという。たしかに、こんにゃくの歯ごたえの弾力、噛む柔らかさ、またしても手が出る、あとを引く味の深み、乙な一品の出来上がり。
ここで「こんにゃく」と「福音」が結びつく。この「柔らかさ」と「歯ごたえ」と「あと引く味」が福音と重なる。まことのキリストの福音は、柔らかくて、歯ごたえがあって、また聞きたいとあと引く味だ。それを学問で煮つめて、固すぎて吐き出したくなる味にしては残念。がまんして噛む聖書の話は福音ではない。「ほっとしなけりゃ福音じゃない」のだ。
じつは、キリストの救いも「2段ひねり」だ。パウロはこう言っている。1段めの切り込みは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」という嘆きだ。2段めの切り込みは「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」という大安心の喜びだ(ローマ7・24−8・1)。
ねじりこんにゃくのように、まず、自分の頭をさげ、ひくくなって、上の切り込みをくぐる。つぎに下の切り込みにねじりこまれ、喜びにあふれて顔を出す。この2段ひねりだ。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8・28 )